二十五・恋に焦がれて鳴く蝉よりも 鳴かぬ蛍が身を焦がす (イルカカ)
-------------------------------------------------------------------------

霧隠れの里に着いたのは、もう午後の六時を過ぎていた。
ここ数日走り通しだったイルカはほっと息を吐いた。
けれど、むしろ息を詰めなければならないのはこれからであることを思い出し、
彼は表情を引き締める。再び歩き出したイルカの背後から、
ひゅるりと慎ましい音を立てて花火が上がった。
「開門したな……」
イルカはひとりごちて歩みを早めた。今の花火はこの里の遊郭の開場を告げる合図だ。
この花火が上がると、昼の間遊郭街と市井を分けている朱塗りの大門が開かれ、
人は一夜の享楽を求めてその門の内へとなだれ込む。
イルカはその中のある遊郭に用があった。
更に言えば、今夜どうしても一人の遊妓の客にならねばならないのだ。
「カカシさん……」
無意識にこぼれ出た名前にはっとして、イルカは口元を引き締めた。
ここでは事が済むまで、うかつに口に出してはならない名前だ。
「西の角、刀通り……」
イルカは大門の中をずいずいと歩いて行った。
遊郭街の内部は東・西・南・北の四ツ角に分かれている。
それぞれの方角にはそれぞれの娼家が趣向を違え、とりどりの遊女で客を誘い込んでいる。
イルカが向かっている西の角は、他の東・南・北の角に比べて若干地味目な娼家が並んでいた。
居並ぶ女たちの器量も十人並みで、花代もあまり高額でなく、良くも悪くも目立たない。
しかしこれは、他の方角に比べ少し趣向の違う娼家を隠すための、目隠しのようなものだ。
「刀、菊、柳の下、高野山……」
イルカの足が進むに従って、娼家はどんどんと地味な装いのものが多くなった。
戸壁に金箔などを貼りつけている家がぐっと減り、
代わりに武家屋敷のような佇まいの娼家が増えてくる。
「兜、鶏……」
段々露骨になって来る通りの名にイルカは眉を寄せた。
もうこの辺りは若い女の声などほとんどしない。女の姿も見かけない。
いるのは、遣り手婆と呼ばれる中年または老年の女ばかりで、
その他に見かける姿は全て男のものだ。客も男なら、春を売るのも男。
この辺りは遊郭の中でも、男色を売る陰間茶屋の一角だった。
「まだ奥か……」
すこし気の重くなってきた自分を励ますように声を出して、イルカはまた足を早めた。

水の国霧隠れの里は、雨の多い土地だ。
どちらかというと乾いた気候で年中を通して暖かい木の葉の里とは対照に、
霧隠れの里は年間を通してじめじめと湿っている。
空には厚い雨雲が浮かぶ日が多く、晴れの日よりも曇りの日が多い。
通りには朗らかな日差しの代わりに境界のあいまいな影が伸び、日中でもぼんやりと薄暗い。
そのような気候は、里の人間の気性にも影響を与えている。
木の葉の里の人間に、比較的明るく楽天的な者が多いのに対し、
雨が多く年中薄暗い霧隠れの里の人間は、やや陰性の気性の者が多い。
気鬱の病を患うものも多く、また雨の日が多いため文学が発達している。
内容も、木の葉の里でエロティックなラブコメディがベストセラーになるのに対し、
霧隠れの里では哲学的な思想関連の書物が多く出版される。
そのような人間性の違いは、性の営みに関してもはっきりと現れていた。
普段、心の奥深くに仕舞っている欲望の尖端が、遊郭の一室で露になる。
木の葉の里では、性の営みも開け広げでおおらかなものが多い。
けれど霧隠れの里では、やはり里の人間の気性が閨の中に現れる。
この里では、他里と比べて猟奇的な嗜好を持つものが段違いに多いのだ。

「瑠璃花や、……ここか」
ようやく目当ての娼家を見つけたイルカはほっと息を吐いた。
しかし、またすぐに眉をしかめて躊躇するような表情を見せる。
躊躇するような暇などない、しかし彼はできるならこの娼家に上がりたくなかった。

「お兄さん、ここにしなさるか」
ふいに店の男衆がイルカに目を留め呼び込みをかけた。しかしそれもごく控えめなものだ。
この宿は、呼び込んで客を取る種類の娼家ではない。客は最初からこの場所を目当てに
やって来るのだ。男衆の呼び込みも、どちらかというと客に対する確認に近い。
「ああ、頼む」
「うちは腕が足りないのとか足が足りないのはいないよ。そういうのをお探しなら、
この裏の路地の一帯に行っておくんな」
「いや、俺は、」
そこまで達観していないんでね。イルカは苦笑するように笑った。男は豪快に笑って、
まぁこれもんの趣味にゃあ達観もねえわな、と白い歯を見せた。
「ならぜひ泊まって行っておくんなよ、こういっちゃ何だけど、この辺りにしちゃあ
いいのが揃ってるよ」
「それなんだけどね、頼みたい妓がいるんだが」
イルカは少し緊張してその先を告げた。ここに、銀の髪のきれいなのがいると聞いて来たのだが。
なに、風呂屋の上で、酒を飲んでた若いのの話を耳にしたんだけどね。
「ああ、銀の髪ならうちにいるよ」
「本当か!ぜひ、その人をお願いしたいんだが」
知らず大声を上げて、イルカははっと口を押さえた。
ついただの陰間を「その人」などと言ってしまった。
しかし目の前の男衆は気にした風もなさそうに、やはり白い歯を見せて笑った。
「けどね、あいつは部屋持ちの中でも人気もんでね。
今晩も、お得意さんが来ることになっているのだが」
「花代なら、三倍出すよ」
間髪いれずに答えたイルカをどう思ったのか、
「決まりだね、兄さん入っておくれな!」
男衆は笑いながらイルカの背を押した。

霧の里の遊郭街の、西の角の奥には、衆道を好む者たちのための娼家が揃っている。
しかし中でも、やや猟奇的な嗜好を持つ者、嗜虐的な嗜好を持つ者たちのための娼家が、
やはりその一角の中でも更に奥まった辺りに並んでいた。
日常から少し逸脱してみたい程度の軽い者たちが好む宿から、
手足を切り落とされた姿形に興奮を覚える、ともすると精神逸脱者すれすれの嗜好を
持つ者まで、あまり大声では言えない好みを持つ者たちが、この一角に集まってくる。
イルカの入った宿も、そのような者を相手に商売している娼家の一つだ。
ただこの種類の娼家の中では、もっとも軽い嗜虐嗜好の者たちが好む娼家であることが、
少しだけ救いだった。

遣り手婆に案内された部屋の中では、すでに娼妓が万端整えて待っている様子だった。
遣り手婆に祝儀を渡す手ももどかしく、イルカがその障子を開く。

「……!カカシさん……!」

イルカの唇は、音にならない名前を刻んだ。

木の葉の里の誇る忍、はたけカカシの消息がふっつりと途絶えたのは半年ほど前の話だ。
その時彼は、例によってSランクの単独任務を請け負い霧隠れの里へと潜入していた。
依頼主からは丁重な礼状が届いていたから、任務自体は成功したのだろう。
けれど、カカシはその任務から帰って来なかった。

部屋の中央に座り込んだ青年は、少し怯えるような目でイルカを一瞥して丁寧に頭を下げた。
着せられている衣装は紫と紺を基調にしたあっさりとした単だ。
けれどその濃い色みが、着ている者の肌の白さを一層際立たせている。
「一晩の、お世話をいたします、檀那様」
青年を凝視したぎり口のきけないイルカをよそに、銀髪の青年は丁寧に口上を述べる。
「私は、口を利いてもよろしいでしょうか、檀那様」
続けられた青年の台詞にもイルカの返答はなく、青年は少し首を傾げた。
「檀那様?」
「え?」
イルカの目は青年の袷から覗く肌に釘付けになっていた。
このような店で体を売るには、やや年の過ぎた男だが、この種類の宿では
そう珍しいことではない。こういった趣向に耐えられる資質を持っていることが
まず何よりも優先されるので、この種類の娼家では、一般的な娼家よりも
娼妓の容貌や年齢に幅が出るのだ。この青年は、やや年嵩ではあるものの、
その顔立ちは寂しげながら端正なものだった。これは珍しいと言えた。
また銀色の髪のせいか年齢が読みにくく、そう年増という印象もない。
更に肌の色は白くていかにもこの辺りの客に好まれそうではあった。
「私は、口を利いてもよろしいでしょうか」
もう一度青年が繰り返した。
実際に好まれたのに違いない。青年の手首に、足首に、それから首元に、
変色して紫になった縄の痕が残っている。そうしてその周りの皮膚は、
ところどころ裂けて、血は出ていないものの赤く滲んでいる。
「檀那様」
「ああ、どうぞ、いつも通りにして下さい」
はっとしてイルカは言葉を返した。敬語を使うイルカに一瞬男は不思議そうな顔をしたが、
小さな声ではい、と呟いて頭を下げた。
「檀那様、檀那様のお好きな様子は…」
「あの、その檀那様っていうの、やめてくれませんか」
イルカは青年の言葉を遮って苦笑して見せた。青年はまた不思議そうに首を傾げている。
「では、何と」
「イルカです。イルカと呼んで下さい」
「では、イルカ様」
「イルカ先生」
「え?」
「イルカ先生って呼んで下さい」
俺、教師なんです。言ったイルカに青年はまたはいと頷いて、イルカ先生、と口の中で繰り返した。

「イルカ先生は、どのように」
イルカは目の前の青年をまだ信じられないような面持ちで眺めていた。
今、イルカの目の前で背を猫背気味にして座っているのは、
まぎれもなく木の葉の里の天才忍者と謳われたはたけカカシに違いなかった。
けれど今、イルカの前でカカシが発する気も、佇まいも何もかも、
とてもあのカカシだとは信じられない。
「どのように、とは……」
イルカの問いかけに青年は、カカシは、にこりと笑って朱塗りの箱を手渡した。
「イルカ先生のお好きな方法で、どのようにでも」
今イルカの目の前にいるカカシの気配は、一般人のそれとまったく同じだ。
緩みきっていてまったく警戒の色を感じない。カカシは、張り巡らせた警戒の気を、
緩みきった気に装って自然にしているのが常だったが、
彼の持っていた切れるような鋭さが、今まったくイルカには感じられなかった。
それはカカシがどんなに隠しても、第六感とでもいうところで感じ取って
イルカが畏怖してしまうものだったのに。
「如何様にでも、可愛がって下さいな」
イルカは手渡された箱の中身を見て息を飲んだ。
宿に入った時から想像はしていたとはいえ、イルカはそのようなものを実際に眺めたことも
手に取ったこともなかった。
「如何様にでも……」
「はい」
ずっしりと重い箱の中には、この宿を指定した者たちが好んで使う
性の道具が詰め込まれていた。
麻縄、犬に着けるような首輪、皮の手錠に木の手錠、
猿轡、張り型、それから何やら植物の入った麻袋、……
「これは」
「その中には、山芋と芋茎、それから山椒末が」
聞いてイルカはもう一度息を飲んだ。
「あの、これを、……あなたは使うんですか?」
「檀那様のご要望でしたら。イルカ先生、使われますか?」
カカシが少し青ざめたような顔でイルカに尋ねる。
いや、とイルカが首を横に振ると、カカシはほっと表情を緩めて肩の力を抜いた。
山芋、芋茎、山椒末、全て痒みを催す植物だ。
あまり想像したくもないが、ここに泊まる男たちはこれらをカカシの後腔に突っ込んで、
カカシが痒いと泣くのを喜ぶのだろう。
そしてカカシが痒みのあまり男根の挿入をせがむ様を楽しむのかもしれない。
そうしたらこの大きな張り型をカカシに突っ込むのだろうか。
縛られて、首輪で柱に縫い付けられたカカシに、まるで尻尾のように、……
イルカは嫌な想像を打ち切って、カカシに手を伸ばした。
「カカシさん」
「……?はい?」
「あ、すみません、あなたが俺の知っている人によく似ているもので……
カカシさんと、お呼びしてもいいですか」
「はい」
カカシはにこりと笑ってゆるく首を傾げた。
その仕草は半年前に、イルカが毎日のように見ていたものとまったく同じで、
イルカは思わず泣きそうになった。
「イルカ先生」
いつの間にか寄り添うように座っていたカカシがイルカの股間に手を伸ばす。
自然な仕草で着物を割られて股間に唇を寄せられ、イルカは慌ててカカシの頭を引き剥がした。
「先生?」
「いや、あの、ちょっと待ってくださ……」
「あの、手、使っちゃいけませんでしたか。ごめんなさい」
「へ?」
カカシは頭を下げると、自ら手を後ろで組んで再びイルカの股間に顔を寄せた。
犬のように口で着物の端を咥え、器用にイルカへ唇を寄せていく。
「えっ!ちょっと、待っ……」
驚いたイルカがカカシの肩を掴むと、何をどう勘違いしたのかカカシはイルカに背を向けて、
後ろ向きのまま両の手をイルカに向かって差し出した。
「カカシさん、」
「あの、もしできたら、あんまりきつく縛らないで……」
差し出された腕には紫色の縄痕がまだくっきりと残っていた。
イルカはそれを痛ましそうに眺めてから、突き出されたカカシの手首を掴む。
少しきつく掴んだその手に、カカシはビクリと体を震わせた。
「いえ、あの、ごめんなさ……」
「カカシさん」
イルカはそのままゆっくりとカカシの体を引き寄せて、後ろから抱きしめた。
里にいる時にはしなかった香の匂いが、カカシの体から立ち昇る。
それは、やはり半年前のカカシの体からはしなかった雨の匂いと相まって、
イルカの鼻をくすぐった。
「もうちょっと、こうしていましょう」
できるだけ優しくカカシを抱き締めて、イルカはカカシの耳元で囁いた。
驚いたような気を発していたカカシは、ふいに雰囲気をやわらかいものにして、
はい、と小さく頷いた。

結局三晩イルカはカカシの元に通った。
一晩目は、朝まで何もしなかった。ただカカシを抱きしめていただけだ。
朝、不思議そうな顔で見送ってくれたカカシに別れ際にキスをして、
そうしてその晩にはイルカはまたカカシの元へとやって来た。
二晩目の夜は少し話をしながら一晩中キスをしていた。
最初、イルカが抱きしめる度に戸惑うようだったカカシの顔が、
段々と嬉しげなものに変わって行き、朝にイルカを送り出す時には寂しそうな表情を見せた。
三晩目にイルカがやって来た時、カカシははっきりと嬉しそうな顔でイルカに手を伸ばした。
イルカもまたそれを嬉しく思い、愛しげにカカシを抱きしめて、そしてその晩彼を抱いた。

「……っ、ふ、……、っ……」
「カカシさん」
イルカは肉の杭を深々とカカシの中に打ち付けながら、
声を出さずに耐えている様子のカカシを覗き込んだ。
「声、出していいんですよ」
「あ、は……い、……」
一瞬戸惑ったような顔をしたカカシがゆるくはにかんで俯いた。
イルカはその顎をすくい上げるようにしてキスをすると、再び熱い腰を押し付けながら
カカシの髪に触れた。
「声、出すの嫌ですか」
そんなはずはないのだが。不思議な気持ちでイルカはカカシを眺めた。
半年ほど前、カカシが常の状態で里にいた頃には、
二人で抱き合うとカカシはあられもない声を上げてはイルカを冷や冷やさせたものだった。
防音などあまり役に立たない同僚の忍者の耳が気になったし、
それよりも、高く色っぽいカカシの掠れ声を自分以外の人間に聞かせたくなくて、
イルカは気を揉んだのだ。
それなのに今目の前にいるカカシは、声を出すのを必死に堪えている。
閨で我慢なんかする人じゃなかったはずなんだけどなぁ。
のんきにそんなことを考えていたイルカの耳を、カカシの言葉が打った。
「あの、口が自由になるの、は、初めて、だ、から……」
「へ?」
「だから、あの、俺、いつも……」
猿轡されてたから……。
瞬間イルカは冷や水を浴びせられたような気分になった。
そうだ、忘れていたけれど、この宿はそういう宿なのだ。
「猿轡……」
「…そうじゃ、ない、時も……こえ、出しちゃいけない、って……」
内に埋め込まれたイルカの杭に必死に耐えながら、カカシは言葉を続けた。
決して声を出してはならぬと命じられ、声を出さずに済むのは無理なほどに責め立てられて、
そうして思わず上げてしまった声に、今度は命令を破った仕置きだとまた責め立てられる。
そんな性交が続く内に、カカシは声を出すことを我慢する癖がついてしまったのだと言う。
今も、思わず漏れ出た小さな声にはっとしては、怯えるような顔で口元を押さえたりしている。
イルカはそんなカカシが哀れで、また彼をそのように躾けてしまった男たちへの怒りで、
体をぶるりと震わせた。
「……くそ」
怒りのためにイルカのものが萎えてしまったのかというと、そんなことはない。
むしろ逆で、嬲られたカカシを想像しては腹が立つのに己の下腹はますます興奮してゆき、
そんな自分にまた腹が立つ。
イルカは自分が怒っているのか情けないのか、わけのわからない感情でいっぱいになった。
「くそっ!」
思わず荒げた声にカカシが怯えた顔でイルカを見上げる。
せんせ?震えるような声で囁くカカシに、イルカは慌てて表情をゆるめた。
「あ、ごめんなさい、カカシさん……」
「え、ううん……あの、やっぱり俺が、声、出したから……ごめ、んなさ……」
「違います!」
再び上げたイルカの大声に、カカシがびくりと体を竦めた。
あっ、ごめんなさい……また謝るカカシを痛ましそうに見つめて、
イルカは優しい手つきでその髪を撫でた。
「……違いますよ、あの、声出して下さい。……好きなようにして下さったらいいんです、
そうしたら俺も嬉しいから」
「嬉しい……」
「はい」
「どうして?」
「え?どうしてって……」
あなたが好きだからに決まっているでしょう。当たり前のように紡いだイルカの台詞に、
カカシは驚いたような顔をして、それから顔をくしゃくしゃにして嬉しそうに笑った。
その様子にイルカは驚いた。
本当に、今のは当たり前のやり取りだったのに。半年前の自分たちには。
「先生、嬉しいです」
「そうですか?」
「だって俺、」
そんなこと初めて言われた。嬉しそうに言うカカシは、
イルカに手を伸ばそうかどうか逡巡している。そんな様子にもイルカは違和感を感じた。
カカシは抱きつくのが好きで、半年前まで、最中には何度もイルカに抱きついてきたものだ。
上忍の馬鹿力で抱きつくものだから、危うくイルカは抱き殺されそうになったこともある。
「?カカシさん、抱き付いて下さっていいですよ」
「え……はい」
また嬉しそうに笑って、カカシはイルカの背中に手を回した。
失礼します、と一々声をかけるカカシに、そんな律儀に言わなくていいですよ、とイルカが笑うと、
「あ、本当ですか。……あの、俺、縛られずに抱いてもらったの、初めてで……」
カカシの返答にイルカはまた息を飲んだ。
そんなイルカに構わずに、カカシは嬉しそうにイルカを抱きしめる腕に力を込める。
「すごく、嬉しい……ね、せんせ、俺幸せです。今、幸せ」
俺、いつも自分が犬か物みたいなんだと思ってたけど、違うんだね。俺、人間だね。嬉しい。
イルカはもうかける言葉も見つけられずに、ただただカカシを抱きしめた。
ぎゅうぎゅうと抱きしめて、カカシさん、好きです、俺、好きです、そう繰り返した。
そうするとカカシがとても嬉しそうに笑うので、
イルカはますます胸を痛くしながら同じ言葉を紡ぐのだった。

十五夜の月が更けてゆく。イルカは隣で抱かれ疲れて眠るカカシを見つめると、
自嘲するように口元を歪めた。
よくもまぁがっついたもんだ。
イルカだって、この霧隠れの里に来るまでは相当の無理をした。
この里に着いてからも、里人に見えるよう細心の注意を払っていたため、
精神的にも疲労困憊といったところだ。けれど、そんな疲労さえも、
半年振りの恋人の前では何の関係もなかったらしい。これじゃまるで覚えたてだ。
「さて、そろそろかな……」
合図が来るはずだ。イルカはそろりと布団から抜け出すと、手早く周りのものをまとめた。
そうしてカカシの寝息を確かめてから、その鼻先に眠り玉を焚く。
これでしばらくカカシが目覚める心配はない。
自分のような中忍に、簡単に眠り玉を使わせてしまったカカシを
イルカは寂しそうに見つめると、気を取り直したようにカカシを抱え上げた。
それから、微かな笛の音。
イルカはカカシを抱えたまま立ち上がると、十数えて素早く印を切った。

イルカが霧隠れの里に潜伏していた三日の間に、
木の葉の里は行方不明となっていたカカシの状況を知り、瞬時に判断を下した。
霧隠れの里との戦争を避けるために、全ては秘密裏に行われた。
イルカ以外に動いた木の葉の忍は、全て暗部の者たちだ。
カカシが里に戻ると、三代目はすぐにカカシに掛けられた封印術を破印した。
ぼんやりとしているカカシを三代目はイルカに引き渡し、
そうして二人には、五日間の休暇が与えられた。

「だから俺は、そんなことであんたを嫌ったりしないって何度も言ってるでしょう!!」
「あんたは、何も見てないからそんなことが言えるんだ!」

イルカの部屋に二人の怒鳴り声が響く。この怒鳴り合いはもう数時間も続いていて、
カカシとイルカの二人ともが部屋に仁王立ちになり、ほとんど殺気のような気を出して睨み合う。

「そうやって決め付けるのはよして下さいって何回も言ってるでしょう!
あんた、俺がどんな気持ちで迎えに行ったのか分かってるのか!」
「来てくれなくても良かったんだよ!」
「何だと!」

カカシの台詞にイルカはその表情をますます厳しいものにする。
カカシも同じだ、常人ならその殺気だけで殺されそうな気を放出して、
イルカには初めて見せるような形相でイルカを睨み付けている。

「なんで、迎えに来たりしたんだ!」
「あんたが好きだからに決まってんでしょう!」
「俺は、来てほしくなんかなかった!」
「じゃああのままあんな場所で死んじまったほうが良かったとでも言うのか!」
「そうだよ!」
「何だと!ふざけんのも大概にしろ!」

思わずカカシの頬を平手打ちにしたイルカを、けれどカカシは避けなかった。
パシンときつすぎるほどの音が響いて、見る間にカカシの頬が赤く腫れる。

この言い争いが始まったのは、カカシの術が解け落ち着いた後、二人で抱き合ってからだ。
カカシもそれを求めたし、イルカも、縄痕の残るカカシの肌を気遣いながら、
優しく優しくカカシを愛した。
それなのに、ことが終わってカカシを風呂に入れようとしたイルカに、
カカシはいきなり暴れ出したのだ。カカシは体に触れてくるイルカを嫌がって、
腕といわず足といわず本気でイルカの体を殴った。

「生きて戻って来たのに、これ以上何を望むんだ、あんた!」
「あんたがいなくなっても生きてんのなんか、辛いだけなんだよ!そんなの、俺はもうたくさんだ!」
「だから俺はいなくならねぇって何回も言ってんだろ!」
「嘘だ!」
「何が嘘なんだ!」
「こんな体……」

突然カカシは自分の体を殴りだした。ぎょっとしたイルカが止めようと手を伸ばす。
がつ、と嫌な音がしてカカシの足の皮膚が裂けた。

「やめろ!」
「だって俺は、もう、……」

あんたの隣にいられるようなのじゃ、なくなってしまった。
急に力が抜けたようにカカシはうなだれて呟いた。
イルカはカカシの体を抱き留めたまま、眉を寄せる。
俺、もう、味覚もないんだ。
自棄気味に呟くカカシにイルカはますます眉を寄せた。
「何の話です」
「あそこで、毎日男の精液ばっかり飲まされて、」
初めはその青臭い匂いや粘つく感触に耐え切れず吐き出してしまっていたのだと言う。
もちろんそんなことは許されない。頭を押えつけられ、後腔に玩具を差し込まれたまま、
また男の精液を飲めと強要される。
「犬かなんかみたいに転がされて、飲み込まされて、でも飲めなかったから」
そこで味覚を奪ってしまう薬を処方され、それから舌の感覚を殺された。
その後は本当に家畜以下の扱いだった。
「イルカせんせはさ、言ってたじゃない」
「……何がですか」
「俺のどこが好きなんですかって聞いたら、気高いところですって」
「…………」
「さすがに俺だって恥ずかしかったけどさ」
でも、意味は分かったよ。カカシは俯いたままでぼそぼそと話した。
イルカはカカシのことを気高いと形容した。
一度任務に出れば、それがどんな凄惨な内容でも、
殺人鬼と言われても仕方のないような仕事でも、
感情ひとつ動かさず完遂するカカシを、気高いと言ったのだった。
またそこには性格的な内容も含まれていた。カカシはいつでも自分に折れなかった。
いつも、一本の芯がカカシの中にまっすぐに通っていて、昼行灯のように装いながら、
カカシは決して自分の中の規範から逸れなかった。
自分が卑しいと感じることに、徹底して手を出さなかった。
「俺が、あの宿でどんなことしてたか分かる?」
「……仕方がないでしょう」
「くのいちだってあんなことしない」
「…………」
「俺には先生がいたのに、そのことだって思い出さなかった」
「それだって、仕方がありません」
「裸で尻尾生やされて、庭に繋がれたりしてたのに」
「…………」
「先生見たよね、宿に入る時のファイル。ファイルの俺、見たでしょ」
「……あそこを出る時に、燃やしてきましたよ」
「あの写真だけじゃないよ。もっとえげつないのいっぱいあるよ」
「…………」
「俺は死ぬまで、あんたの好きな俺でいたかったのに」
「それでも、俺はあなたが好きですよ」
「俺はもう、あんたの作ってくれる味噌汁の味も分かんなくなっちゃった」
「それでも、一緒に食べてくれるならいいですよ」

カカシは力なく首を振った。体の力を抜いてしまったカカシをゆるく抱きなおして、
イルカはカカシの耳元に唇を寄せる。

「…それだけが理由なんですか。……違うでしょう」

途端に強張ったカカシの体を抱きしめたまま、
イルカはカカシをあやすようにその銀の髪に頬を擦り付けた。

「違うでしょう、あなたは……そっちじゃない理由で怖いんでしょう」
「……何が」
「昨晩、気付いてしまったんでしょう」

カカシはゆっくりと顔をイルカのほうに向けると、色を無くした瞳でイルカを見遣った。

「俺に抱かれるのは気持ちよかったですか?」
「……ええ」
「本当に?」
「……もちろん」

それからイルカはカカシの腰を抱き寄せた。
熱を持ったイルカの腰の感触に、カカシは思わず下を見る。
さっきより熱を孕んだ声でイルカは囁いた。

「本当に、気持ちよかったんですね?」
「……ええ」
「縛られていなかったのに?」

ああ、気付かれてしまった。
カカシは絶望的な気分になって顔を俯かせた。

昨夜、イルカに優しく抱かれて気付いてしまったのだった。あの娼家でイルカに優しく抱かれた日、
その丁寧な扱いに、カカシの胸は熱くなったのに。
イルカが、自分の恋人だとは分からない状態で 抱かれて、それでもなお、
自分の胸の内は熱く濡れたのに。
昨晩は里に帰ってきて初めてイルカに抱かれた。
優しく、けれど激しくイルカは自分を求めてくれたのに、
カカシの内側には戸惑うような思いが渦巻いた。
もっと酷く。もっと乱暴に。
もっと抵抗できないように手も足も拘束して、声さえも出せないように。
半年ほど前まで、確かにカカシの内側にそのような欲望はなかったのに、
昨夜突然その思いは顔を出したのだった。

「だから、怖いんでしょう」
「…………」
「俺に、軽蔑されるんじゃないかと思う本当の理由は」
「…………」
「それなんでしょう」

囁きながらイルカはカカシの股間を弄った。じんわりと熱を持ち始めているそこを指先でなぞり、
そのまま下穿きの中に手を入れる。指を伸ばして奥の窄まりに触れれば、
数時間前の睦み合いの名残でそこはしっとりと濡れていた。

「でもね、カカシさん」
「…………」
「俺だって」
「…………」
「俺だってそんな簡単に」

あんたを離したりしないんですよ。
イルカの手が不意に離れて、イルカの着ているベストのポケットへと伸びる。
それからまたイルカの手はカカシの湿った窄まりに伸ばされて、
そのままイルカは指を挿し込んだ。

「……っ、は……」
「今、あなたが何を咥え込んだのか、分かりますか」
「…………?」
「カプセルの膜が溶けたら分かりますね。山椒末ですよ」
「…………!」
「痒くなるかもしれないですね。そうなっても、自分で何も出来ないように、
この手も縛ってあげましょうね」
「イルカ、先……」
「足も開いてあなたの恥ずかしいところが全部見えるように、そんな格好で縛ってあげましょう」
「イル、」
「それから首輪で繋いであげましょうね」
「…………」
「ねぇカカシさん、あなたを離したりしないんです、俺は、俺だって何者にだってなれるんですよ」

イルカの囁きが終わらない内に、カカシがむずむずと尻を振り出した。
それには気付かない振りで、イルカはカカシの両手を縄で括る。

「俺が惚れた気高さなんて、そんなとこにはないんです」
「……ルカ先生」
「あんたは今だってちっとも前と変わっていません」
「先生、痒いです」
「なんであんたがあんなことになったのか、もう思い出しているんでしょう。
こんな体になる代償に、あんたの判断が里を救ったんだから」
「ねぇ先生、痒い、痒い!」
「俺はずっとあんたの側にいるんですよ」
「先生!助けて、先生!」
「味噌汁の味が分からなくたって、」

それでも一緒に食いましょう。
悲痛な叫び声を上げるカカシの口に木の猿轡をはめ込んで、
イルカは楽しげにカカシの後腔をなぞった。耐え切れずカカシがぼろぼろと涙をこぼす。
そんな様をイルカは愛しげに見遣って、
ねぇ、素敵ですよ、あの宿で見たよりも、
そう言うとカカシの尻を思い切り叩いた。

カカシがターゲットに致命的な一撃をくれた時、相手は不意に鳥笛を吹いた。
カカシの任務はターゲットの抹殺と、携持しているはずの文書の抹消だったが、
息も絶え絶えのターゲットは、今文書の写しを持った仲間が雷の国に向かったと言った。
それを裏付けるように、鳥笛と同時に人影が林を飛び出し走り出した。
写輪眼を使ったカカシには、もう一撃の力しか残っていなかった。
ターゲットに止めをくれるか、仲間だという人影を仕留めるかだ。
文書の写しを持った仲間というのは嘘かもしれない。しかし、万一それが雷の国に渡ると、
火の国と雷の国は全面戦争になるのだ。

カカシは瞬時に判断を下して人影に向かい印を切った。それと同時に、
息も絶え絶えだったターゲットはカカシに向かって最後の印を切った。
カカシを倒す力は残っていなくとも、カカシの記憶を全て奪い、
写輪眼さえも使えない状態にしてしまえば、カカシという忍者を抹殺したも同じだ。
写輪眼で力を使い果たし、封印忍術をまともに食らったカカシはその場に倒れ込んだ。

次にカカシが何も分からぬ状態で目覚めた時、そこは霧隠れの里の遊郭の一室だった。
そうして、お前はこの売春宿に金で売られてきたのだと説明されて、
カカシはその場で犯された。

イルカの部屋の窓越しに、木の葉の里のからりとした空気が映る。
イルカは泣き出したカカシを放って、束の間外の景色に見入った。
半年前に見た景色と同じ景色、火の国木の葉の里の、涼しげな秋の気配。
イルカはしばらく、そこに懐かしむような視線を投げかけた。

カカシが泣きながらイルカの膝に頭を擦り付ける。
猿轡に塞がれて出せない声の代わりに涎をこぼし、泣き濡れて哀願する目を向ける。
それでもイルカは、カカシを無視した振りで外の景色を見続けた。
またカカシが泣いて、涙に濡れた頬をイルカの膝に擦り付ける。

「カカシさん、痒いですか。もうちょっと、我慢しましょうね」
泣いて縋り続けるカカシにようやく目を向けたイルカは、 優しくそう言って、
そうしてもう一度泣いているカカシの尻を強く打った。

ふうわりと風が吹き、晴れの日を喜んで木々が微笑んだ。
それなのに今、二人の吐息は雨の前触れのように湿った音を立てた。

-------------------------------------------------------------------------
end (2006.5.11)