四十七・ふてて背中をあわしてみたが 主にゃかなわぬ根くらべ(テンカカ)
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「もう、いいですよ」
テンゾウの唇が奇妙な形にゆがんで、その数年振りに見る笑い方に
あ、しまった、とカカシが気付いた時にはもう遅かった。
「待って、テンゾウ、違……」
最後まで言葉を紡ぐ暇もなく、テンゾウの姿がカカシの目の前から消えてしまう。
さっきまで確かに二人だったカカシの部屋は、今テンゾウの体温の名残が
心許なく揺れるだけだ。
先ほどまで開け放した窓から風が吹き込むのにも気付かなかったカカシは、
唐突に夜風の冷気を感じて、のろのろとテンゾウのいなくなった部屋の窓を閉めた。テンゾウは滅多に怒らない。彼は元々の質が非常に穏やかな上、
さらに感情コントロールに長けているので、少々ムッとしたぐらいでは
その感情は「怒り」にまで変化しないのだ。あ、怒ったかも、カカシが
そう思っても、次の瞬間には深呼吸するようにふぅっと息を吐いて
「もう、しょうがないですね」
そう言って困ったような諦めたような顔で笑っては、カカシのことを
許してくれる。
木を操る性質というのももしくは関係しているのかもしれないが、テンゾウは
どこまでも穏やかだ。そうして、感情に揺れがない。
厳しい時はどこまでも厳しく、しかしそれでも彼の感情は揺るがない。
それはしんとしずまった大きな森のようだ。カカシは自身が割りに
精神状態を上下させてしまうので(それでも最近はかなりましになったのだが、
やはりテンゾウに比べると、すぐ思考がロウに入る。テンゾウはそんな
起伏も本当に全然ないのだ)、カカシは揺るがないテンゾウの側にいると
とても落ち着いた。そうして彼は自分をとても慕ってくれる、
だから本当になんでも許してくれるのだ。
仕方ないですねぇ、諦めたようにそう言って、少し笑って眉毛を下げて。しまった。
無意識のうちに唇を噛み締めながら、カカシは数年前にも見た
テンゾウの奇妙な笑い方を思い出した。
テンゾウは滅多に怒らない。
寛大に諦めて許してくれる。
でも、そんな彼が許せなかった時には……
その時は、テンゾウはどこまでも厳しく冷たい男になる。言わせてもらえば
少々陰険に過ぎるほどに、執拗に執拗にその過ちに拘り続ける。
それこそ謝っても謝っても何ヶ月も口を利いてくれない。
一度怒りの感情にスイッチが入ってしまうと、そこに潜り込んで中々出てきてはくれず、
何を言っても冷めた目で、ああそうですね、とか、そうですか、とか、
任務中であってもそっけなく冷たい口調で最低限の口しか利いてくれなくなる。
普段ゆるゆると暖かいだけに、一旦凍りつくと、ちょっとやそっとでは
溶かしてくれないのだ。本当に怒ってしまうと、
それはそれはテンゾウはしつこい。そうして今その地雷を自分は踏んでしまったのだ。カカシはぼんやりと
ベッドに腰を下ろした。
一時間前は、久し振りにテンゾウに会えて嬉しかったのに。
分かっている、自分が調子に乗りすぎた……カカシはそう自省しながら、
自分のよく回りすぎた舌を後悔した。◇
「だから、任務ですって」
苦笑したように笑って、テンゾウは何でもない風にオレの体を抱いて来た。
オレは、その余裕が気に入らなかった。
「任務ねぇ……どうだかね〜」
「先輩が心配するような余地はないって、それこそ先輩が一番知っているくせに」
今日までテンゾウは、諜報任務に就いていた。陳腐ではあるが、
まず首領格の男の女から抱き込むという方法だ。一般人よりも、横道にそれた
やくざだとかマフィアだとかいう連中は、面子を殊更に大事にするので
女関係で掻き回すのが意外に有効な手立てとなる。
そうして、今回はその愛人の好みのタイプを絞って適任を宛てた結果
テンゾウが接触することになった。実はテンゾウはモテる。オレやゲンマのような分かりやすいモテかたではないが、
その筋の女にも、素人女にもテンゾウはモテるのだ。
柔らかく穏やかな忍らしくない物腰、女に対してまったくガツガツしていない
ところ、真面目そうな顔、圧倒的に強い技量……
テンゾウは、オレやゲンマのような分かりやすいタイプに飽きた女たちに
よくモテた。それはつまり、かなり上玉の女にモテるということだ。
加えてテンゾウは、セックスの技量が桁違いだった。
まぁあれは天性のものだろうけれど……「体中キスマークだらけ」
「仕方ないでしょ、愛人抱き込むのがボクの仕事でしたし」
「一ヶ月やりまくってたんだろ」
「仕事ですってば」やれやれと言った感じでテンゾウはオレから手を離した。
オレはそれも、気に入らなかった。「じゃあ、もうオレなんか抱くことないよね」
「なんですか、それ」
「一ヶ月女のとこにいたんでしょ。わざわざこんな堅い体抱かなくてもね」
「もう……」テンゾウは相手にするのが面倒になったとでもいうように、テーブルの上を
片付け始めた。「ボクが抱かなくなったらどうするんですか、先輩は。
先輩も女の人のとこへ行きますか」
「オレ『も』って何だよ、オレ『も』って。一緒にすんな」
「はいはい」
「大体オレは、お前がいなくたって不自由しない」
「はいはいはい」
「女のとこだって、わざわざ探さなくても行くところあるし」
「……へぇ?」たぶん、この辺りで雲行きが怪しくなり始めていたんだろう。
でも、イライラしていたオレは、それに気付かなかった。
……それだけテンゾウに、心を許しているということでもあったのだが。「ボクと切れたらどこに行くんですか?」
わざとからかうような声でテンゾウが聞いてきて、オレはそれがますます
気に入らなかった。テンゾウが女と一緒にいたんだから、
済まなく思うのはテンゾウであるはずなのに、なんでオレが責められるような
聞かれ方をしなくちゃならないのか。
その頃にはオレは、テンゾウが任務で女を抱いたのだということを
頭に血が昇ってすっかり棚上げしてしまっていた。「お前より優しくしてくれる奴のとこ行くよ」
「へぇ、そんな人いるんですか?」暗にいるはずがない、と笑いを含んだテンゾウの声に、
オレはますますムッとしてしまった。
今冷静に思えば何を考えてるんだ、という感じだが、
その時のオレはイライラした感情に支配されて、テンゾウが何を言っても
ムカついてしまったのだ。「いるよ。お前が知らないだけだろう。お前、長期任務多いもの。
オレ正規部隊だからずっと里にいるし、そんなに長い間一人で待ってられないよ。
女じゃないんだから」思わず言ってしまったのは、いつもオレがテンゾウを待っているからだ。
暗部の時は分隊長でテンゾウよりも遥かに任務の多いオレを、
年下のあいつがハラハラしながら待っていた。
今、里で安全な任務をこなしながら、暗部のあいつをハラハラして
待っているのはオレだ。
そんな自分を、女みたいだと、オレは何度か自嘲的に思った。
戦場に兵士として行った男を待つ、内地の女のようではないか。
最初からこうだったなら、オレだって別に拘らない。
でも、オレを待つのはあいつだった。
オレの無事を祈るのも、怪我をして帰ってきたのを見て泣きそうな顔をするのも、
手持ち無沙汰に日を過ごすのも、ずっとずっとオレではなくてテンゾウだったのに。「……先輩、ボクと付き合う時に、全部切れたっていいましたよね」
「言ったよ。口先だけだとしても、それが礼儀だろう」
「先輩、本気で言ってるんですか」
「お前の理想通りにしてやっただろ?お前が里にいる時は」そんなの嘘だ。オレはテンゾウしか見えてなかった。
付き合う時に全部切れたっていうのだって、それはあいつの勘違いで、
相性のいい商売女が何人かいただけだ。高級娼婦だったから、
令嬢のような素人女に見えたんだろうけれど、オレの恋愛相手は
テンゾウだけだった。だって暗部の頃からずっと好きだったんだから。「ボクが暗部任務に就いている間はそうではなかったということですか?」
「お互い様だろ?知らなければなかったことと同じだよ。お前だってそうでしょ?
礼儀を守って付き合ってたんだから、それでいいじゃない」もう、自分がなんでこんなことを言っているのか自分でもよく分からなかった。
ただオレは、女の匂いをあちこちにつけて帰ってきて平然としているテンゾウを
イライラさせてやりたかった。嫉妬させてやりたかった。
だって、イライラしながら帰りを待って、やっと会えたら女の残した跡に
嫉妬しているなんて、オレがあんまりみじめじゃないか。「……先輩、ボクは、そういう礼儀は、最低だと思っているんです」
しばらく黙っていたテンゾウが、明らかに声のトーンを落として低く呟いて、
そこでやっとオレは我に返った。「……あの、テンゾ……」
「お人よしすぎましたかね、ボクは」
「テンゾウ」
「ボクは、あなたがボクとおんなじように思ってくれてるって思っていました」
「テンゾウ、違う」
「いいですよ、弁解してくれなくても」そうして口の端に奇妙な笑い方を浮かべたテンゾウを見て、今度こそオレは
しまったと思った。「もう、いいですよ」
怒らせた。
背筋が凍りついたように思った瞬間に、テンゾウの姿は消えていた。◇
桜の花がゆらゆらと揺れている。背中を丸めながら桜の並木道を歩いていたカカシは、
七分咲きになった淡い花びらに目を細めた。『先輩、お花見行きましょうね、今年は。ボク、お弁当作りますから』
そんなことを言って喜んでいたテンゾウを思い出して、カカシはまた少し背中を丸めた。
まだ、見ごろじゃないけどお花見しようかって誘ってみようか。
でもその後のテンゾウの反応を考えると、カカシは恐くなる。
あれからずっとテンゾウと口をきいていない。あまり会ってもいない。
一緒に住んでいるのに、テンゾウはわざと生活時間をずらすようにして
カカシと顔を合わさないようにしている。……いや、違うか、今まであいつが合わせてくれていたのか……
カカシは落ちてきた花びらをなんとなく手のひらで弄びながら
ぼんやりと考えた。暗部任務で夜間仕事をするテンゾウが、
カカシと過ごすために無理に昼や夕方に起きていてくれているのだ。カカシはますますテンゾウにすまなく思った。そうして、テンゾウに
謝りたいと思った。でもテンゾウは聞いてくれない。
あれからカカシは何度も謝ろうとしたが、その度テンゾウは姿を消してしまったり
無視して出かけてしまう。それを引き止めて面と向かわせる勇気もなくて
カカシはうまく謝れないままだった。……しばらく会えなくなるのに、どうしよう。
でもそれを言うのは卑怯な気がした。
今日、綱手に呼び出されたカカシは、長期任務になるエスを言い渡された。
出発は明日だ。
場合によっては一年近く空けてしまうかもしれない。そのことを言えば、
テンゾウはまた諦めたような顔をしてから、仕方ないですね、そう言って
笑ってくれるだろう。たぶん、許してくれる。
でもそれは、狡い気がした。
いつ死ぬか分からない忍だから、任務遠征の別れの前では大方を許してくれる、
そんな仕方のない事情を利用しているような気がした。
だからといって、今までまったく謝れなかったのにあと数時間でうまく謝れる自信もない。
……しばらく間を空けたほうが、お互いに頭が冷えていいのかも……。
それは逃避ゆえの考えだったが、でもカカシにはそれも一理あるように思える。
謝れるようなら謝って、無理ならしばらく冷却期間を置けばいいか……そこまで考えてカカシが顔を上げると、淡い花びらの洪水が目に飛び込んできた。
隣に座って、お弁当を食べながら、綺麗ですねぇってテンゾウが言って……
カカシはそれ以上考えるのをやめて、また背中を丸めて歩いて行った。
ひらひらと花びらが降ってきて、カカシの銀色の髪の上にやわらかく落ちた。◇
結局その日、テンゾウは家に帰って来なかった。テンゾウとは会えなかった。
◇
チューブを体中に繋がれたカカシが病院のベッドで目を覚ますと、
テンゾウが泣きそうな表情でカカシの手を握っていた。
「テンゾウ……」
喉が熱く焼けるようで上手く声が出せない。ああそういえば、オレは火遁で
体を焼かれたんだった……カカシはおぼろげに思い出した。
「テンゾ……」
うまく出せない掠れた声でカカシが呼ぶと、テンゾウはますます泣きそうな顔で
握る手に力を込めた。
「テンゾウ……ごめんね……」
引き攣る喉で、それでもカカシは一生懸命に声を出した。ごめんね、テンゾウ……
「先輩」
「ごめんね……おれ、悪かった……」
「もう、喋らないで下さい」
「謝るの、おそくなって、ごめんね……」
「先輩、喋らないで」
「あのね……あれ、うそだから……ごめんね……」
「……分かってましたよ、先輩」
「あやまるの……おそくなって……ごめん……」
「先輩、もう黙って」
「おはなみ……いけなかった……ごめんね……」
「謝らないで」
「うん、ごめんね……」
「先輩」
「おれね……テンゾウと……おはなみいきたかった……」瞬間テンゾウがカカシを抱き締めて、カカシの肩口に顔を埋めた。
カカシの肩がじわっと熱くなって、ああ、テンゾウが泣いているのだと
カカシはぼんやりと思った。
「まに、あって、よかった……」
カカシの声はますます掠れて、ほとんど吐息のようだった。
「おれ……ごめんっていえずに……もうあえなかったらって……」
ほとんど独り言のようなカカシの声に、でもテンゾウは答えるように
ますます抱き締める腕と擦り付ける額に力を込めた。ごめんね……テンゾウ……好きだよ……テンゾウ……ごめんね……
囈言のように繰り返すカカシの言葉と
無言で泣いているテンゾウの熱で、
病室の中は少しずつ暖かくなっていった。
カカシが遠征任務に出ている間に花を散らした桜は、若い青葉を載せ、
秋風に葉を減らし、雪の重みに耐え、今また春を待っている。
痩せていたその枝に、少しずつふくらみが戻る。
そろそろと昇り始めた太陽に雪は溶け、里には去りゆく冬の足音がかすかに響く。
少しずつ、少しずつ、春を迎え入れる準備が進んでいる。
病室の外では梅が咲いている。
もう少ししたら、また桜が咲くだろう。
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end (2008.3.28)