■2月 (15×29)
午前7時50分、出勤前のはたけカカシ(29歳・独身)は鏡の前でネクタイを締め直すと、
よしと自分に気合いを入れた。
彼は中学校教諭なのだからネクタイを締めなくても良いのだが
(実際彼は普段、ネクタイなど締めていない)、これは彼なりの気合いである。
それからもう一度時間を確認し、カカシはテーブルの上のデパートの紙袋を見遣った。
そして、昨日風呂場の中で考えた言い訳をもう一度確認する。『え〜これはだな、出勤途中に向かいの家に住む大家さんに呼び止められて、
ほらオレ大家さんのお気に入りだからさ、なんかこれくれるっつうんで
貰っちゃったんだよね』よし、大丈夫だ。どこにも不自然なところなどない。
強いて挙げるとすれば、向かいの家に住む大家さんは齢60のご老体で
こんな行事自体興味があるのかどうか怪しいことと、
大家さんは婦人ではなく男だということぐらいだ。
しかしそんなこと同僚のアスマも生徒も知るわけはないのだから、どうでもいい。この中身を今日まで持っていたオレの苦労を今さらそんなことで
泡にするわけにはいかない。カカシはもう一度気合いを入れ直して、よしと紙袋と仕事鞄を掴んで立ち上がった。
今日は2月14日、乙女の祭典・バレンタインデーである。
◇
カカシは木の葉中学校で数学を受け持つ教師である。
普段のマイペースな言動や茫洋とした外見とは裏腹に、
要点のみを簡潔にまとめて的確な練習問題で分かりやすく教えるカカシの授業は
人気があった。カカシ本人に関しては、うるさく干渉してこないことと
(どちらかというと、放任にすぎるきらいがある)滅多に怒らないこと、などで、
まぁ好意を持たれる先生には違いなかった。
しかし、よく見れば整った顔に長身の痩躯であるカカシは、
その長身を猫背気味に曲げ、
寝癖をろくに直さないまま伸びた前髪できれいな二重瞼を隠し、
さらに愛読しているエロ本の発売日にはその理由も隠さずそわそわしている。
そんな彼は好意を持たれこそすれ、思春期の女子たちに憧れを抱かせるには
少しキラキラ感が足りなかった。
まだ、彼女たちには分かりやすい魅力が必要なのだ。
そんなわけで、彼が女生徒に言い寄られるなどということは今までほとんどなかった。「あ、サスケ…」
特に道々誰に呼び止められることも紙袋について質問されることもなく
無事校門に着いたカカシは、向かいからやって来る見慣れた頭に気付いて
思わず声を出した。向かいから登校してくるのはカカシが担任を受け持つ、
3年生のうちはサスケだ。
名門うちは財閥の御曹司である彼が、なぜこんな公立中学校に通っているのかは
分からないが(実際彼の高校生の兄・うちはイタチは、授業料が法外なことで
知られる某有名校に中学の頃から通っている)家柄の申し分ない彼は成績も、
更には顔までも申し分なかった。
成績は常に学年トップであり、運動をさせれば校内一の俊足うずまきナルトに
ひけを取らない。おまけにその細い身体に乗っかっている顔は、
どこの役者かと言いたくなるほど整っていた。
ここまで来ると嫌味なはずだが、サスケは更にそんな自分に無関心である。
自己顕示欲の塊であるはずの思春期まっただ中で、
しかし彼はそんな自己顕示欲を鼻で吹いて自己鍛錬に勤しんでいる。
ここまで来ると、50代のオッサンが美少年の皮を被っているとしか思えない。
しかしそれはともかく、やはり外見は漆黒の髪と黒曜石の目を持つ美少年であり、
更には女子に鼻も引っかけないクールガイであり、ついでに金持ちであって、
早い話がサスケはもてた。それなのに。
「カカシ!」
カカシに気付いたサスケが嬉しそうな表情を見せる。
しかしそれはカカシだから気付くわけであって、端から見たら普段の仏頂面から
眉毛が1ミリ下がった、ぐらいの変化でしかない。「おはよう。おい、学校では『はたけ先生』って呼べって言ってるだろ」
「まだ誰もいないんだからいーじゃねーか。…おはよう」そのままサスケはキスをしようと顔を近付けて来たので、
カカシは流石に「アホ!」と言ってその頭をはたいた。「相変わらず早いね」
「あんたがこの時間だから仕方ないだろう」言われてカカシは、困ったような嬉しいような気持ちになる。
カカシは教師なので、朝はもちろん一般生徒より早く登校しなければならない。
サスケは、そんなカカシに時間を合わせて登校してくるのだ。
校門から職員室までのほんの五分をカカシと歩くために。この微妙な関係は半年ほど前から続いていた。
しかし、カカシとサスケは付き合っているわけではない。今年の4月、担任教師と生徒という間柄で面会を果たした二人は、
どんどんと親しくなっていった。
正確に言えば、サスケが押して押して押しまくった。
サスケはカカシの何が気に入ったのか、まずカカシに好きなんだと直球で告白した。
そんなサスケに困惑はするものの、拒絶しなかったカカシを見て、
サスケはその後ことあるごとに続けて好きだと言い寄った。
そして担任されている生徒である立場を利用できるだけ利用してカカシの側に居座り、
自分の存在をカカシにこれでもかとアピールした。
最初は「お前、ホモなのか?」とカカシも困惑していたのだが、
自分の生徒に懐かれて可愛くないはずもない。
更に、相手は他の生徒の憧れの眼差しを一心に集めながら、
誰に対しても無関心だったサスケである。
そんなサスケが自分にだけ懐いてくる様は、人嫌いな猫が自分だけに懐いているようで、
単純に嬉しかった。カカシは段々といつも側にいるサスケに慣れていった。そうして、半年ほど前、ちょうど夏休みを境に二人の関係は微妙に変化していった。
夏休みでも勿論出勤日のあるカカシが出勤すると、そこには必ずサスケの姿があった。
カカシが用事を済ませている間、
サスケは数学準備室で宿題をしながらカカシを待っている。
数時間後、カカシが帰って来ると、他愛もない会話の合間に
今日は隣町で祭りがあるから一緒に行こう
(校区内の祭りだと、カカシは見回りに駆り出されるので一緒に行くのは無理だ)、
今日はオレがメシを作ってやるから部屋に上がらせろ、
などなどと言って、サスケは一直線に距離を詰めてくるのだった。決定的なことが起こったのは、花火大会の夜だった。
夏の間中、サスケが何かと自分を誘うのは、仕事で不在がちな父親に対する
寂しさと、寮生活の兄に対する寂しさから来るものなのだろう、と
あまり深く考えずにカカシはサスケに付き合っていた。
もちろん好きだと言われて悪い気はしなかったが、14も年下の子供なのだから、
サスケが男であっても気持ち悪くもない代わりにおかしな気持ちにもならない。
しかも自分は教師であり相手は生徒だ。
けれど、その晩サスケは、カカシにまるで子供とは思えないキスをしたのだった。花火大会の人混みで気分が悪くなってしまったカカシを「心配だから」と
家まで送って来たサスケは、部屋にカカシを寝かせてから
「苦しいだろ」とカカシのシャツの襟をくつろげた。
ありがとう、とカカシが礼を言おうとして視線を向けると、
サスケが何か真剣な顔でカカシの胸元を凝視している。
どうした、とカカシは声を掛けようとしたが、それは叶わなかった。キスしてきたサスケの身体からは、コロンか何かのようないい香りがした。
はぁ、と時々つく荒い息は低くて、
カカシの身体にいつの間にか回されている腕は力強く固い。
カカシは初めて、サスケに子供の体臭ではなく雄の匂いを感じ取った。結果的に言うとキスに対してカカシは抵抗しなかった。
それは今でもなぜだか分からない。
気分が悪くてそんな気力がなかっただけなのかもしれないし、
もしかしたら別の理由があったのかもしれない。ただその日を境に、サスケは前よりも真剣な顔でカカシを見つめるようになり、
カカシはサスケの姿を見つける度少し心拍数が上がるようになった。
キスはそれから、何度か繰り返されている。
サスケは、前よりももっと真面目で低い声で、カカシに好きだと伝えている。◇
「じゃあ、後でね」
「…おう」職員室の前まで来て、カカシとサスケはいつも通り別れた。
サスケが教室に向かってしまってから、カカシは「あー、渡せなかったな」と
手元の紙袋を見遣った。カカシが家から大事に持ってきた袋の中身は、チョコレートである。
それは、サスケのためのものだ。夏以来、微妙に変化し始めた自分の気持ちに戸惑っていたカカシは、
去年のクリスマス、とうとう自分の思いを受け入れるしかなくなった。
特に予定もなく終業式を終えて帰路に就こうとしたカカシに、
サスケが呼び止めて何やら包みを渡した。
カカシが怪訝な顔をすると、「クリスマスだから」とか何とか言って
少し顔を赤くしている。カカシが包みを開けようとすると、
開けるな、とそれを止め、それからサスケはカカシを細い路地に引っ張っていった。
そうしてサスケはカカシをコンクリの塀に押し付けると、
何事かという顔をしているカカシにいきなりキスをしてきた。
少し膝を曲げた状態でサスケにのし掛かられ、しかしそのせいだけではなく、
カカシはサスケの唇の位置が夏より上がっていることに気付く。
重なってきた唇は今までのどのキスよりも深く、乱暴にカカシを貪った。
それだけでは足りないと言うように、抱き締めるサスケの腕が
カカシの身体を宥めるように追い上げるように撫で回す。
舌を絡め、深く口づけ、休憩だとばかりに唇を舐めてはまたカカシの舌を追い掛ける。
そんな扇情的なキスがようやく終わって、カカシが呆然とサスケを見ると、
サスケは照れたように頭を掻いた。「明日からしばらく会えないから」
年末年始はオレ、外国だし。だから2週間分のキスしとこうと思って。ごめんな。
そうして、じゃあ、風邪ひくな、とか何とか、
サスケは照れている自分をごまかすように早足で帰って行った。
カカシは呆然とその後ろ姿を見送る。彼の心臓は、これまでにないほど早く脈打っていた。
それからカカシは、自分の状態に気付いてまた呆然とした。
カカシは勃起していた。◇
クリスマスにサスケがカカシに贈ってくれたものは、上品なキャメルのマフラーだった。
冬が苦手で、寒い寒いと言っている割にはマフラーを持っていないカカシに
(いつもいつも、次に外出したら買おうとは思うのだが、その度に忘れるのだ)
サスケが「温感は首の後ろにあるんだから、首を温めれば寒くないんだ、ウスラトンカチ」
と何度も言っていた。そんな彼を思い出してカカシは思わず微笑む。
いつまで経ってもマフラーを買わず、相変わらず寒そうな首筋で学校にやってくるカカシに
じれて、 サスケはプレゼントにマフラーを選んでくれたのだろう。
カカシがマフラーの肌触りを確かめていると、下から手作りらしい押し花の栞が出て来た。
別にいつもエロ本ばかり読んでいるわけではなく、
意外と読書家なカカシに気付いたサスケが、おそらく自分で作ったのだろう。
押し花に使われている花は何という花なのかは分からないが、
紫のきれいな大きめの花と、淡い桃色の小さな花だった。
サスケの家にはとりどりの花が咲いている庭があったから、
たぶんそれを摘んだのだろう。
あの仏頂面が自分のために花を摘んで、更にそれを押し花にしているところを想像して、
カカシは思わず笑ってしまった。
それから何か、暖かいような甘いような気分になる。さっきあんな、
大人の男のような顔をして激しいキスをしてきたくせに、なんで同じ顔で
こんな可愛いことするんだ。参ったなぁ。
参ったなぁと今度は声に出して呟いて、カカシは赤くなって頭を掻いた。
さっきの自分の身体の反応を思い出したのだ。しかしカカシは、
それを思い出しても嫌な気にならない。それどころか、
年が明けるまでもうサスケとキスができないのか、
などと考えてしまっている自分に気付く。
参ったなぁ、ともう一度呟いて、カカシは手に持ったマフラーに
真っ赤になった顔を埋めた。◇
新学期に何事もなかったような顔をして
「あけましておめでとう」と言ってきたサスケに、カカシは
「おめでとう、あ、マフラーと栞ありがとうね」としか言えなかった。
続く言葉も本当は用意していたのだが、どうしても口から出て来なかった。
大人になると、こうも勇気がなくなるものか。
情けない思いをしているカカシに、サスケはそれでも嬉しそうに笑った。
そうして放課後、サスケは、
冬の間に少し伸びた前髪で男前3割り増しの顔をカカシに近づけて、
愛おしがるようなキスをした。大人は勇気がないから、または、色んなものに縛られすぎているから、
何か言い訳がないと気持ち一つうまく伝えられない。それでもカカシはサスケが卒業してしまう前に、サスケの気持ちに
答えを渡したいと思った。
近頃のサスケは「好きだ」という言葉のあいまに切ないような目を向けて来る。
このままカカシが是とも否とも言わず、サスケが卒業する日を迎えたら、
二人の間には何もなかったことになってしまうということに、サスケは気付いているのだ。バレンタインは本来なら女の子が男の子に気持ちを伝える日だ。
でもそんなこと構ってられるか、とカカシは思う。来月にはサスケはもう卒業してしまう。
女々しくても何でも、この際利用できるのなら何でも利用させてもらう。
この恋愛のお祭りがたぶん最後のチャンスなのだ。
なんとか便乗して気持ちを伝えないと、オレはサスケに思いを伝えられなかったことを
きっとずっと後悔する。そのカカシの決意の結果がチョコレートの入った紙袋なのだった。
勿論、バレンタイン直前にそんなものを買える神経をカカシは持ち合わせていない。
そんなことができるなら、とっくにサスケに気持ちを伝えられていたはずだ。
このチョコレートは、年始にサスケに気持ちを伝えようとカカシが決心してすぐ、
木の葉デパートのデパ地下で購入したものだった。
松の内に挨拶回りに行く大人のような顔をして、チョコレート以外に
焼き菓子も扱っている高級菓子店のショーケースの前へとカカシは立った。
そうしてしばらく迷う振りをしてから、
「チョコレートならおじいさんでも大丈夫ですよね?」などと
どうでもいい質問を店員にし、
結局無事にトリュフの詰め合わせの包みを抱えて帰って来た。
それから一ヶ月、カカシは今日の日のためにその包みをずっと部屋に置いていたのである。「朝は渡せなかったけど、放課後に渡せばいいか…
朝だとバタバタしててうまく言えないかもしれないし」一人ごちながら、カカシは手元の紙袋を机の下にしまい込む。
教師朝礼の時間になって、カカシはそのまま席を離れた。◇
「気味悪ィ」
サスケの言葉にカカシは凍り付いた。今は放課後、教室に残っている生徒は
もうほとんどいない。「んなこと言うなってばよォ…せっかくなんだから受け取れって」
「冗談じゃねぇ。なんで男が男にチョコレート渡そうなんて考えるんだ。寒気がする」女だけでも大概だっつうのに、と、サスケは今日一日で学校中の女子から押し付けられた
チョコレートの山を見遣ってうんざりと言い放った。「じゃあオレこれどうすりゃいいんだよ、せっかくお前にって預かってきたのに」
「お前が食べりゃいいだろ」
「んなことできるかってばよ」まだ聞こえてくるナルトとサスケの声をぼんやりと聞きながら、
カカシはさり気なく手に持っていた紙袋をロッカーの中に押し込んだ。
そうして、何事もなかったような顔をして二人に話し掛ける。「ほぉ〜ら、今日この教室は風紀の委員会で使うんだから、おマエら早く帰りなさい」
「あ、カカシ先生!サスケってばひどいんだってばよ」
「別にオレはひどくねぇ」情けない顔でカカシに訴えてくるナルトに何事かとカカシが表情で尋ねれば、
ナルトが大げさそうに身振りを交えて訴えてくる。「オレさ、オレさ、今日こいつ宛にってチョコレート預かったんだってばよ。
なのにこいついらねぇとか言うの」
「男からだろ、そんな気色悪いもんなんで受け取らなきゃいけねぇんだ」
「気色悪いとか言うなってばよ。お前、失礼だぞ」
「相手の気持ちも思いやれないような行動だって失礼だろ」
「お前なぁ…」まだ何事か文句を言おうとしたナルトを制止して、カカシは
「はいはい、続きは廊下。お前ら出て行きなさい」と二人の背中を押した。
その手が少し震えていることに、二人とも気付かなかった。男にチョコレートもらうのが気色悪いんなら、なんで男にキスしたり
好きだって言ったりすんだよ。
それとも、男のくせにチョコレート買おうとか思う、その心根が気色悪いってこと?カカシは何がなんだかよく分からなくなって、震える手をなんとか落ち着かせようとする。
さっきの嫌そうなサスケの顔が頭から離れなかった。
地面がぐるぐると回っているような気がして、ひどく気分が悪い。
それから腹に大きな穴が開いて、そこから風が入ってくるような感覚がする。
それでもカカシは、なんとか手を動かして機械的に委員会のための机を並べ始めた。
ロッカーに押し込んだ紙袋が、ひどくきたならしいものに見えた。◇
「あれ、カカシさん」
「え、イタチくん?」委員会を上の空のまま監督して帰路に就くカカシに、珍しい顔が声をかけた。
サスケの兄のうちはイタチだ。彼は普段学校の寮で寝起きしているため、
こんなところでは見るはずのない顔だ。イタチのことは、彼が夏期休暇で帰省している間、
サスケを通じて何度か顔を見たことがあった。
正直言って今はサスケを思い出すそのイタチの顔を見ていたくなかったが、
カカシは何とか笑顔を作ってイタチに話し掛けた。「珍しいね、いつも寮なのに…今日は帰ってきてるの?」
「ええ、今日だけ…明日サスケの婚約の顔合わせがありますので」
「え?」イタチの言葉にまたカカシは言葉を失う。今日に入って二度目に、
カカシは頭を殴られたような気分になった。「婚約って…」
「あ、まだ本決まりじゃないんですけど、正式にはあいつが中学を卒業してからです」明日はまぁ、お互いの家の紹介をし合う会みたいなものなので。
続くイタチの言葉をどこか遠いもののように聞きながら、カカシはなんとか相槌を返した。「そう、なんだ…へぇ…色々あるんだね、」
「まぁあいつは特に好きな人もいないようですし…」そこまでイタチが言った時、「イタチさん、お父様がお待ちですよ」と
側仕えらしい大男が声を掛けて来た。じゃあ、これで。
イタチはその年らしくない大人びた物腰でカカシに挨拶すると、
迎えに来ていたらしい車に乗って去ってしまった。カカシは車が見えなくなってしまうまで、呆然とそこに立っていた。
素手で紙袋を握りしめた指が、寒さで感覚をなくしている。
それでも構わずに、カカシは紙袋を持ったまま、
暮れていく路地をぼんやり見つめて立っていた。◇
ばしん!
カカシが力任せに投げつけたチョコレートの包みは、不細工な形にへこんで転がった。
それがまるで自分の気持ちのようで、カカシはますます情けなくなった。「…あんなこと、言うんなら、最初から放っときゃ良かったじゃないか…っ」
なんで自分に好きだって言ったりキスしたりしたんだ。
「しかも、婚約すんなら、なんで…、…」
そこまで言ってカカシは情けなくて涙がこぼれてきた。もしかして、
サスケは自分をからかっていただけなのかもしれないと思う。
もしそうだとしたら、14も年下の同性の生徒に言い寄られて、キスされて、
困惑しながらもだんだんと心を寄せていく自分の様は、さぞ滑稽に映ったことだろう。
そうだ、なぜ最初に気付かなかったんだ。あんなに見目もよくて、
頭も家柄も良くて、まだ15のサスケが、本気でオレのことが好きだなんて、…何とか自分に言い聞かせて宥めようとしているのに、カカシの涙は止まらなかった。
情けない。悔しい。そして、こんなにも悲しい。目の前のへこんだチョコレートの包みを手に取って、
カカシはびりびりと包装紙を引き裂いた。
昨日までは緊張と、それと間違いなく甘い気分で見つめていたチョコレートの箱は、
今はもう滑稽な思い上がりの象徴にしか見えない。
カカシは泣き顔のまま箱を開けて、中の一つを口に放り込んだ。
口の中で溶けたチョコレートはとても甘くて、またカカシは涙が止まらなくなった。
確かにこの甘さは、女の子に相応しいものだ。自分が贈るようなものではない。
渡さなくて良かった、と思いながら、
サスケはこんな甘いもの嫌いだったかな、と思いながら、
また涙の流れるままカカシはチョコレートを一つ摘んだ。
バカみたいだ、からかわれたんだ、バカみたいだ、でも、まだ好きだ。
カカシの鼻の奥がツンと痛くなって、目の前のとりどりのチョコレートがまた
涙でぼやけて見えなくなった。◇
ピンポーン、とカカシのマンションのチャイムが鳴った。しばらく間を空けてからもう一度、
控えめにチャイムが鳴らされる。ピンポーン。
床に倒れ込むようにしていつの間にか眠っていたカカシは、
はっきりしない頭の奥でその音を聞き、目を覚ました。
誰だ 、こんな時間に…時計はもう10時を指している。
さっき散々泣いてしまったカカシの目は熱を持って重い。たぶん腫れてるんだろうな、
格好悪いから出ないままにしておこうか…
それでもまたピンポーンとチャイムは鳴り、ドアの外の主が諦める気配はない。
やれやれ、と息を付いて、カカシは仕方ないとばかりに立ち上がった。
「なんて顔してるんだ、あんた」ドアを開けて固まっているカカシをものともせずに、サスケが目を見開いて
カカシの顔をまじまじと見る。ドアの外にいたのは、サスケだった。
なんで、よりによってお前が来るんだ。
そんなカカシの胸の内などお構いなしに、サスケは呆然としているカカシを押しやって
「邪魔するぞ」と言うと、勝手知ったる何とやら、とばかりカカシの部屋に上がり込んだ。
それから、床の上に放り出されているチョコレートにめざとく目をつける。
べこんとへこんだ化粧箱、ビリビリに破られて散乱する包装紙、…
何事かを悟ったらしいサスケは、「あんたのこれはこのせいか」と、
そっとカカシの腫れたまぶたを指でなぞった。このせいか、もないもんだよ。
自嘲気味に笑ったカカシは、どうでも良さそうに「まあね」と言った。
「…誰にもらったんだ、これ」
「さぁ?もうオレには関係のないことだよ」
「前に付き合ってた奴とかか」
「…まぁそうだね、オレが好きだった人だよね」段々とまた胸の内に降りてくる情けない思いを何とか押しとどめながら、カカシは
「こんな時間に何か用?」とできるだけ普段通りにサスケに尋ねた。
出来たら、もうこのまま帰って欲しいと思いながら。「用っていうか…あんた、オレにチョコレートとか用意してないのか?」
「は?」
「だから、チョコレート。…あんた、オレのこと好きだろ?」だから、用意してるのかと思ってもらいに来たんだけど。
もういい加減自覚してんだろ、あんただって。
サスケはまだ少し目の前のへこんだチョコレートの箱を気にしながらも、
当然のようにカカシに言った。
カカシは、目の前が真っ暗になった。「バカにするな!」
突如大声で叫んだカカシは、床に放り出されていたチョコレートの箱を
思い切りサスケに投げつけた。
途端に、サスケの顔が厳しいものになる。「…何しやがる」
「バカにするのも大概にしろって言ってるんだ!」怒鳴るカカシの真っ赤な目には、また新しい涙が浮かんでいた。
段々と視界がぼやけてくる。ああ、ダメだ、ここで逆上したりなんかしちゃダメなんだ。
そうしたら、きっとまたサスケの思う壺だ。
けれどカカシはもうどうしても自分を抑えることができなかった。
オレをバカにして楽しいか。
14も下の男に本気で思いを寄せたオレは面白かったか。
それを粉々に砕くのは気持ち良かったか。
本気でお前のことを好きになってしまったこんな大人は、
見ていてそんなに可笑しいものだったのか。「お、オレにだって、感情は、あるんだ」
「…何言ってんだ、あんた」
「お、オレが、自分の気持ち自覚して、こんなことするのに、…、お、オレだって、
へ、平気だったわけじゃ、ないの、に…、…」ひどい。口の中で傷ついたように呟いて、今度こそカカシは泣き出してしまった。
「…なんなんだ、あんた…ワケ分かんねぇ。分かるように話せ。
…なんだ、そんなにオレにチョコレートやんのはイヤか?」
「…っ、……、…っ…」ぶっきらぼうな物言いとは反対に、心底心配そうに眉を潜めたサスケが
カカシの肩に手を掛ける。
それを振り払う気力さえ持たずに、カカシは喉の奥で何度もしゃくり上げた。「どうしたんだよ…」
「な、なんで…なんでオレなんか選んだんだ、」バカにする相手だったら、オレじゃなくたって良かっただろう。
もっと、軽く恋愛できて軽く立ち直れそうな奴にしといてくれれば、良かったじゃないか。「そんなに、オレのこと、鬱陶しかったの?」
「…だから話が見えねえって」そんなに。こんな傷付け方をするほどに。
こんな風にみっともない言葉を口にさせるほどに。
カカシはぐす、と鼻をすすり上げると、諦めたような顔をした。
いつの間にかカカシの肩に掛けていた手を背中に回して、
カカシをぎゅうと抱き締めていたサスケは、じっと言葉の続きを待っている。「…もう、どうせだから、お望み通りに言ってやるけどさ、」
「………」
「そのチョコレート、お前に買ったんだよ」床に放り出された、へこんだ箱を指さしてカカシが言う。瞬間サスケが目を見開いた。
カカシはどうでも良さそうに、先を続けた。「もう、満足したでしょ?お前の読み通りにオレはお前のこと好きになって、
こんな気色悪い真似までして」はは、オレ、格好悪いな。なんでオレ、こんなにバカなんだろうなぁ…
諦めたような顔のままカカシは投げやりに笑って、
それから転がっているチョコレートをピンと指で弾いた。「それでさ、渡す寸前に気色悪いとか言われて渡せなくて、自分で食べてんの。
もう、笑えるよ、ほんと、に…、…」またぼろぼろと溢れてきた涙にカカシは一度言葉を切って、
それから涙に濡れた顔のままサスケを見上げてぼうっと笑った。
ね、おまえ、もう帰って。ね。もういいでしょ?これ以上、みじめなとこなんてもう出てこないよ。
もういいでしょ?「…あんた、」
「でもね」カカシはサスケから視線を外して、それからまたぼんやりと笑った。
でもね、オレ、ほんとにお前のこと好きだったんだよ。
瞬間、ものすごい力がカカシの身体を締め上げた。「ふざけんな!」
腹の底からの怒声と共に、またサスケがカカシを抱き締めてきつく締め上げる。
あれ、なんで怒ってるのさ、サスケ…。怒るならオレだろ。
でももう、どうでもいいや…「あんたは、オレが今まで言ったこと全部、冗談だって思ってたのか」
「……」だって、冗談なんでしょ?
言おうとしたカカシはでも、サスケの表情を見て、口を噤んだ。「それとも、オレの言い方がまずかったか?…あんた、そんなこと思って、
さっき、泣いてたのか」オレが、こんな顔させたのか?
涙目になった辛そうな顔で言ったサスケは、
壊れ物に触るようにカカシの濡れた頬をゆっくり撫でた。
ゆっくりと、慈しむように。「?…サスケ?」
「オレは冗談であんたのことを好きだと言ったことも、からかったこともない。
オレは、あんたが、」好きだ。
その言葉を聞いた瞬間にカカシの頭は真っ白になった。
ああ、またからかわれているのかもしれない。
でも、もうどうせこれだけバカなとこを見せたんだから、同じことだ。
それよりもさっきのサスケの言葉がほんとだったらいいのに。
本当に、オレのことを好きだったら、いいのに…カカシは少し嬉しそうに、諦めたように、また笑った。
「ほんとだったら、いいのになぁ…」
「…バカめ。オレが嘘なんか吐くと思うのか」それにはカカシは言葉を返さずに、ただじっとサスケの腕の中で大人しく息を詰めていた。
そんなカカシをもどかしそうに見て、サスケはまた抱き締める腕に力を入れた。「ね、サスケ、」
「…何だ」
「気持ち悪くないの」オレみたいなオッサン抱き締めてさ。自嘲気味に言ったカカシに、
サスケはまたイライラした声音で言った。「そんなことあるわけないだろう!オレは、あんたが好きだって、ずっと言ってるだろ!」
「…だって、お前…今日、男からのチョコレートもらって」気持ち悪いって言ってただろ。
掠れるような微かなカカシの声は震えていた。
サスケはそんなカカシをもどかしそうに撫でながら、カカシの台詞に目を見張る。「…はぁ?」
「今日、放課後に、…」言われてようやく思い当たったサスケは、違う!と目を剥いて怒鳴った。
「バカ、あれはナルトのだ!!」
「…は?」
「預かったなんて嘘なんだ、あんた知らないだろうけどな、
あれは毎年のアイツのアホな恒例行事だ!!」◇
そこからはもう大騒ぎだった。サスケは「ナルトのやつ、殺す」と
どす黒いオーラを全身に漲らせてカカシのマンションを飛び出そうとし、
カカシは「オレが勘違いしたのが悪かったんだから」と必死にサスケを止めた。放課後に、ナルトが『預かった』と言っていたのは嘘で、
あれはサスケを陥れるためにナルトが用意したチョコレートだったらしい。「ありゃ毎年のことだ。春野のチョコレートが自分になかったとか
オレのより貧相だったとか言って、あいつ何かと物騒なもん食わせようとしやがる」春野とは、ナルトが1年の頃から片思いしている女子、春野サクラのことだ。
世の中はうまくいかないもので、サクラはサスケのことが1年の頃から好きだった。
そのサクラがバレンタインデーにサスケにチョコレートを渡すたび、
ナルトはヤキモチを妬いて、自分もまたサスケにチョコレートを渡すのだ。
下剤やら媚薬やらを仕込んだ物騒なチョコを。
もちろん「オレから」などと言うことはなく、
「友達の女子から預かったってばよ」とか何とか言ってサスケに渡す。
ナルトは本当に他の女子のチョコレートも預かって来るので、
どれがナルトのチョコやら分からずにサスケは一応受け取るハメになる。「でも去年も一昨年もオレはそれを食わなかったからな。
何とか今年は食わせようとしたのかしらんが、今日のはな、手作り感を演出した
カード付きだったんだ」しかしそこに書かれた字が汚なすぎたため、
サスケは一発でナルトのチョコレートだと分かったという。
『男のチョコレートなどいらん』というのは、ナルトに対するサスケの皮肉だったのだ。「え、そんな…」
カカシは言葉を失って呆然としてしまった。じゃあ、オレの、さっきのあの態度は、…
今度は真っ赤になって逃げ出そうとするカカシを全身で抱き留めて、
サスケはカカシの耳元で囁く。「まぁオレは、ゲイってわけじゃねぇからあんた以外の男なんかゴメンだけどな」
でも、意外だったな、あんた、オレのことそんなに好きだったんだ?
こっこっこいつ!
調子に乗るなと真っ赤な顔で怒鳴り返そうとして、
それからカカシはあれっとサスケの顔を覗き込んだ。
嫌味なくらい余裕なことを言っているくせに、その顔はほとんど泣き出しそうだ。「…サスケ?」
「オレが、…今まで何の不安もなかったとでも思うのか」その顔は15らしい感情に塗られていた。
オレが何の不安も感じてなかったと思うのか、本当に?
サスケが何度好きだとカカシに告げても、大人のカカシは曖昧な顔で笑うばかりで
返事をくれたりはしない。問い詰めてはっきり拒絶されるのも怖くて、
しつこく返事を迫ることもできない。ただ、気持ちを伝えるだけ。
子供の気の迷いだ、と流されているのか真剣に聞いてくれているのか、
それさえもはっきりとは分からないまま。「…ごめん、サスケ…」
「このまま、」卒業することになっちまうのかと思った。
サスケはそう言うとまたカカシをぎゅうと抱き締めた。「オレさ、卒業したら婚約させられる予定だったから」
このままだったらどうしようかと思ってた。切なそうな声音のサスケの台詞に、
しかしカカシははたと思い当たる。「そうだ!」
「何だ」
「婚約!お前、婚約、するって…」
「ああなんだ、聞いたのか?あ、イタチか?」身体を震わせているカカシに何でもなさそうに言って、サスケはふうと溜息をついた。
「しねぇよ。っつうか顔合わせが明日だってさっき聞いてさ、」
その日程自体は知らなかったんだ。オレ男が好きだから無理だって思わず言っちまった。
何でもなさそうに若干15歳のサスケはカカシに向かってゲイ宣言をする。
一応「あ、男ってあんただけだぞ」とは言ってみたものの、
あまりな台詞にカカシは固まった。「なんだよー、しょうがねぇだろ、アンタが好きなんだから。
今はあんたじゃねぇと勃たねぇんだよ。うちの家はな、どうせイタチが
継ぐからいいんだよ、オレに関しては結構ゆるいんだ」でも親父に殴られたけどな。そんなことを言ってサスケは腕にできた紫色の痣を見せた。
まぁそれでもイタチがフォローしてくれたからな。
あいつに初めて感謝したぜ、オレは。「…イタチ君は知ってるのか?」
カカシはサスケの言った言葉にまだ半分固まりながら何とか口を開いた。
こいつ、さっき勃つのがどうのとか、とんでもないこと言わなかったか。「知ってるよ。大体オレがこの中学校に通いたいってゴネた時も、
それとなく親父説得してくれたのアイツだぜ。その理由だって知ってたからな」
「そういえば、サスケはなんでこんな公立に来てんのさ」
「そんなもんあんたがいるからに決まってんだろ」今度こそカカシはポカンとして固まってしまった。そんなのは初耳だ。
「…何だと?」
「あんたは知らなかっただろうけど、オレはあんたのことずっと見てたんだよ」でも1年2年ととうとうあんたの担任に当たらなかったからな、
今年は悪いが少々親に金を積んでもらった。
でも、その甲斐があったぜ。サスケはさらりと言って不敵に笑う。「オレだって3年越しなんだから、あんたもちょっとくらい
格好悪いとこ見せてくれたって、罰は当たらないと思うけどな」
「おっおっおまっ…」
「結果オーライってことで、いいだろ?」全然オーライじゃない!じゃあオレはこんなガキんちょに3年かけて
オトされたってことか!?
けれど叫ぼうとしたカカシの唇は、サスケの唇に塞がれて、
紡ぐはずだった言葉を飲み込んでしまった。「何とでも言え。オレはもうアンタの言葉を聞いたんだからな、
はっきり言ってこわいもんなんかないぜ」まだ15歳のくせにサスケはふてぶてしい顔で笑って、
これまた15とは思えないキスを仕掛けてきた。
泣いたり驚いたりしてくたくたになった身体をサスケに預けたカカシは、
自分を制止しようにも、それもできずに甘いばかりのキスを受けている。「好きだ、カカシ、」
サスケの柔らかな唇は甘くカカシの唇をなぞり、
不埒な舌はカカシの舌を追い回しては、若い欲情をカカシの中に注ぎ込む。
いつの間にかサスケの片手がカカシの腰を撫で回し始めても、
カカシはサスケの服を掴む指に力を入れることしかできなかった。
サスケは片手でガッチリとカカシを抱いたまま、片手で好きにカカシの身体を撫で回す。
夏よりも少し大きくなったサスケの手の平をカカシは嬉しく思いながら、
続けざまに与えられるキスに感じ入った声を漏らす。15の腕の中の自分ってどうなのよ。自分に突っ込みながらも、
でもカカシはまぁいいかと思うのだった。
ほんの数時間前までは、あんな激情が自分の中にあるとは知らなかった。
それもこれも、全て目の前のガキんちょが与えたものだ。
悔しいが、そこに関しては認めるしかない。繰り返されるキスの合間、甘い吐息の連続の合間に、
床に転がるチョコレートの箱がカカシの目に入った。
そういえば、サスケにせっかくチョコレートを買ったのに、
結局自分で食べてしまった。
明日にでも、サスケのために新しいチョコレートを買って来てやろうとカカシは思う。「なんだ、よそ見すんなよ」
「してないよ」息継ぎの合間に囁かれたサスケの台詞に、カカシは笑って返した。
そうして、今度は自分から口づける。
サスケにやるチョコレートは、ビター味のトリュフにしよう。
けど今は、チョコレートよりも甘い唇を堪能することにしよう。
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end