■それでも君と春に(18×32)



カカシとケンカをした。

まぁいつものことだ。オレとカカシは、カカシの家で半同棲状態で一緒に住んでいて
(オレの家であるうちはの屋敷は、二人で住むには広すぎるし、
何より辛い思い出が多すぎた。あの家にいると、オレは過去の亡霊に
搦め取られそうになるのだ)そうして、いつもいつもしょうもないことで言い争っては
ケンカをしていた。
今回だって、切っ掛けは些細なことだった。

春のあたたかい風がそよりと吹いて、オレは道端の花が顔を綻ばせているのに気が付いた。
先週まではまだつぼみだった、この辺りの花が咲くくらいにあたたかくなったら、
ふたりで新しく住む家を探しに行こうとオレはカカシと約束していたのだ。
今の住まいは手狭に過ぎるから。
そんなことをお互いに口に出しながら、 そんな言い訳をお互いにしながら、
オレたちはオレたちが互いの帰る場所になったのだと そっと確認をした。
カカシは優しそうな顔で笑って、オレは新しい家で カカシを待っている自分を、
オレを待っているカカシを、その笑顔の中に夢想した。
それがたとえ血なまぐさい任務の帰りの夜であっても。

そっと吹くあたたかな風にオレは焦がれていた春が来たことを知る。
切っ掛けはささいなことだった、それこそ食後の洗い物をすぐにしなかったとか、
注意された後の態度が悪かったとか…
機嫌が悪くなって八つ当たりするように閉めたドアの音が大きすぎた、
その音を聞いて相手が余計に腹を立てた、そんないつものことだった。

もう一ヶ月、カカシと口をきいていない。正確に言えば会ってもいない。
そうして、もう会うこともないのかもしれないと、オレはぼんやりと思っている。
ケンカをするのはいつものことだった。
でも、今回は、その後がいつもと違っていた。

「…そんなにオレと一緒にいるのが腹が立つんなら、オレなんかやめたらいいでしょ。
女の子と普通に付き合えばいいじゃない、なにもこんなおっさんと一緒にいることないよ」
「そんなこと言ってないだろう!」

オレはまたイライラと怒鳴った。最近、カカシとケンカをするといつもこうだ。
その度にオレは同じ事を言って、カカシだって一旦は納得したような顔をする。
でもすぐにカカシはまた同じ事を言い出す、オレはまたイライラと怒鳴る。

「女がどうとか関係ねぇだろ!今はそんなこと言ってるんじゃない」
「でも、女の子とだったらこんなにケンカしなくて済むかもしれないじゃない」
「…そんなに女がいいんだったら、アンタが女と付き合えよ!」

オレが言い捨てた途端にカカシが一瞬悲しそうな顔をした。
オレはしまった、と思ったけれど見なかったことにして、
舌打ちをして乱暴にカカシの家のドアを閉めた。

しまった、と思ってしまう自分が悔しい。やっぱりオレはカカシが好きなのだ。
ケンカをするけれど、そんなことは別の次元の話で、
カカシが好きなことには何も変わりがない。
そしてオレは、相手もそうに違いないと信じていたのだ。
オレはバカなガキだから。オレは強いガキだから。ガキは強いから、
信じたいことをまっすぐに信じることができる。
それは世の中を知らないバカだから できることだだけれど、
でもやっぱり信じることができるというのは強いのだ。
そのことに、オレはカカシと付き合ううちに気が付いた。

カカシの家からの夜道はひどく肌寒い。
家に(正確には里から割り与えられている上忍宿舎にだが)帰る予定などなかったから、
オレは昼間に外に出た時の薄着のままだ。
まだ少し春まで間がある残冬の夜の十時は、綿のシャツ2枚で歩くには
いくら忍といえども厳しい。オレは段々と冷えてゆく体と、
それから頭の中をごまかすように、はあっと息を吐いた。
カカシは最近何か言いたそうにしていることがある。いや、さっきだって
同じ事を言いたかったはずだ。
カカシはオレの言葉を信じない。聞いていないのだ。


オレの見合い話は何も今に始まったことではなかったが、
真剣味を帯びたやり取りを五代目火影と交わすようになったのはつい最近のことだ。
12の拗ねた下忍だったオレは、木の葉を抜け、木の葉に戻り、
16で中忍になってから間を置かず上忍に昇格し、17になってすぐに暗部に入隊した。
そうしてさらに殺しのスキル、そして写輪眼を利用した忍術スキルを
格段に上げたところで、暗部を除隊された。
上忍としてのオレに名指しで任務が入るようになったからだ。
その数は、もはや暗部と掛け持ちしながらこなせるような数ではなくなっていた。
良くも悪くもオレは「木の葉の名家」として名高い「うちは」の、ただ一人の血流なのだ。
それにオレは、一人の親族もなく、秘密を抱えるのはこの体だけ、という
まことに使い勝手の良い忍だった。それについてオレはどうとも思わない。
忍とは道具なのだから、里にとって顧客にとって、自分がより都合がいいというのなら、
そのまま都合良く使ってくれればいい。
暗部を除隊されたオレは18になっていた。つまり、男子として結婚ができる年齢だ。
その辺りから、雲行きが怪しくなってきたのだ。


オレはまたはあっと息を吐く。目の前に白い固まりがふうわりと浮く。
それはすぐにしゅんと消えてしまって、ざくざくとオレの足音だけが響く。
子供を作れ、と五代目は言った。
お前の種は残さなきゃいけない。暗部で一年間、大怪我をひとつも負わず
任務を全てこなしたお前を見ての判断だ。すぐでなくてもいい、子供を作れ。

だんだんと指先がかじかんできてオレは今度は指に向かって息を吐いた。
息のかかった一瞬は確かに指先があたたまって、
けれどその後指は息を吹きかける前よりも一層冷たくなった。
それは、オレがカカシに吹きかける言葉のようで、オレは悲しくなる。ざくざくと、
足音だけが響く。

別れようか、遠慮がちにカカシが初めて言ってきたのはいつだったか。
オレは信じられない言葉を聞いて、裏切られたような気さえして、
ものすごい勢いで 怒った。
その時オレは、信じたいものを信じることができるのは、当たり前のことだと
思っていた。当たり前のことなのだから、カカシだってオレと同じに信じているのだと
思っていた。オレはバカなガキだから。
二度目に言われた時に少し変だと気付いた。三度目に言われた時、
言っているカカシのほうが泣きそうな顔をしていることに、ようやくオレは気が付いた。
でもその顔が、オレの子作りがどうとかいうことに関係していると、
しばらく気付かなかった。オレはバカなガキだ。バカだけれど強いガキだ。
だから、罪悪感というものに縁がなかったのだ。縁がないのだから気付けなかった、
だってオレは、お互いに愛し合っているのがはっきりしているのに
なぜ罪悪感を持たねばならないのか、本当にわからなかったのだ。
オレはカカシといると幸せで、嬉しく思う。それなのになぜ、
カカシがオレの前途を奪っていると後ろめたく思うことがあるのか。
そんなことをカカシが思っていることさえ、オレは知らなかった。

オレは子供なんて欲しくない、結婚なんてしない。
オレはあんたが一番大切なんだ、 あんたの側にずっといたいんだ。
オレはカカシに何度も必死に言い募った。
けれどオレがどれだけ言葉を尽くしても、カカシは受け取らなかった。
臆病なカカシは、オレがいつかカカシを置いて去ってゆくことを
ほとんど確信しているようだった。
でも顔だけは微笑んで頷いているから、オレもそれ以上どうしようもない。

だんだんと上忍宿舎に近付いてきて、まだ灯っている誰だかの部屋の灯りを見て
オレはホッとする。
いつもオレが見るのはカカシの家に灯っている灯りだったけれど、
今はその灯りが少し苦しい。

それまでもオレたちはよくケンカをしていたけれど、最近は些細なことで
以前より口論することが多くなった。その度に、カカシは女と付き合えば、だとか、
女とどこへでも行けば、などと言う。
オレは腹を立ててふざけんな、とか、時にはもうあんたなんかごめんだ、
やっぱりオレは女と結婚する、などと口走ってみたりした。
カカシはフンと鼻を鳴らして「念願が叶うじゃない、良かったね」などと憎まれ口をきき、
オレは言ってはいけないと思いながら「あんたとじゃ無理だからな!」などと返した。

それでも、やっぱりオレはカカシと別れられない。口で何と言おうと、
やっぱりオレはカカシが好きなのだ。カカシだってそうだ、
口ではそんなことを言ったって、仲直りをして一緒に眠る夜には「男でごめん」とか、
しおらしそうにごにょごにょ言ってくる。
オレはその度に自分の口を後悔しながら、
別に本気で子供が欲しいわけじゃないんだ、と言い訳をする。
そしてカカシは、オレがお前の結婚の機会奪っちゃってるねと
オレの気持ちをまるで無視する台詞を吐き、オレはそれに怒ってイライラする。
イライラして些細なことで口論になる。その繰り返しだ。
でもどうしていいのか、オレにはまるで分からない。

久し振りに上忍宿舎の自分の部屋に帰り、換気されていない部屋の空気に
オレは顔を顰めた。窓を開けて冷たい外気を迎え入れる。
それでもよっぽど外よりは温かい部屋の中で、オレは段々と冷静になっていった。

明日、謝りに行こう。どうせもともとはしょうもないケンカだったんだから。
カカシはまた悲しそうな顔で笑って頷くだろう。そしてすぐにきっとまた、
オレたちはケンカをする。
でもオレは、それ以上考えないことにしてベッドの上に沈み込んだ。
一人で眠る夜は、久し振りだった。


「婚約をしろ。これは決定だ」

五代目火影の言葉を、オレは信じられない気持ちで聞いていた。
カカシに謝りに行こうとした矢先に、五代目火影直々に呼び出されてのことだった。

「…何を、」
「砂の大名だ。…お前が戻る時に世話になった。…分かるだろう、…」

五代目は苦虫を噛み潰したような顔で大名の名を告げた。
オレは、全身の血の気が引くような気がした。

その名前には確かに聞き覚えがある。オレが大蛇丸の元から木の葉に戻った頃のことだ。
オレが木の葉の里に戻るには、ナルト達の働きが必要だった。
しかし、木の葉が動き、更に砂までもが動くためには、
優秀な忍と同じくらいに莫大な金が必要だったのだ。
表だった戦争でない限り、
そこにかかる金子はほとんど自分たちで工面しなければ ならない。
更に、その際の負傷者を治療するには医療技術だけでは もちろんどうにもならないのだ。
そこにはしかるべき器具が必要であり、 しかるべき薬剤が必要になる。
そして、一般人とはまったく違った種類の負傷を負う忍の回復には、
恐ろしく高度な技術と高価な薬剤が必要になるのだ。
オレが木の葉に戻るために幾らかかったのかなど、聞くのも野暮な金額のはずだ。
そうして、その金子を黙って捻出してくれたのが彼の大名だった。

「あたしだって、あんたにこんなことを言いたくはない」
「………」
「今なんとか、断ることのできる口実を探している。…あっちの娘さんの
気が変わらないとも言い切れない」
「………」
「でもこれはひとまずは決定事項だ。どうしても、断れないんだ」

分かるだろうと五代目は苦しそうに言った。あんたが、もう少しお粗末な顔に
産まれてりゃ、こんなことにはならなかったはずなのにねぇ…。五代目は溜息をついて、
またオレを見つめた。子供を作れとは言ったけど、
あたしだってこんなことは望んでいなかったのに。

「あたしだって、あんたも…カカシも可愛いからね」
「五代目、」

オレは聞き捨てならない五代目の台詞に顔を上げた。どうしてだ、カカシとのことは
まだ誰にも言っていないはずだ。なぜ知っている…でも続きは言葉にならなかった。
執務室のドアがノックされたからだ、そうしてその気配にオレは息を飲んだ。

「カカシ、」
「失礼します、火影様。…スイマセン、聞こえてしまいました」

ケンカして以来に見るカカシの顔は、いつも通りに笑っていた。
そうしてその顔は 穏やかなまま、嬉しそうにカカシは言ったのだ。

「婚約するんだってね、おめでとう、サスケ。
お前が幸せになってくれたら、オレも嬉しい」

その後のことはあまり覚えていない。
でも、確か大声で怒鳴りながらオレはカカシを殴った。
一発でなく何発か殴った気がするから、カカシは避けなかったんだと思う。
五代目が何か言っていたような気がする。でも覚えていない。
飛び出したオレの背中に向かって、殴られたカカシがやっぱり嬉しそうに
「おめでとう、サスケ」と呟いたのが聞こえた。
オレはそんな呟きを拾ってしまう自分の忍の耳を憎んだ。でもそれだけだ。
他はもう覚えていない。何も覚えていない。
それからカカシには会っていない。

ふわふわと、あたたかい風の中を黄色い蝶々が飛んでゆく。なんとなく目で追うと、
その先の河原にいる家族連れが目に入った。
たぶん一般人の家庭なんだろう、キャンプシートを広げて父親と母親と、
子供二人が弁当を頬張っている。子供は女の子と男の子で、女の子がしきりに
父親に何か言っている。隣で母親が笑いながらそれを見ていて
(宥めているのかもしれない)、男の子は無心に握り飯を口に運んでいる。

ふとオレは、懐かしさのようなものを感じた。
あれは確か秋のことだったから、懐かしさというには変かもしれないが。
あの日も、確かここで弁当を広げている家族連れを見た。オレの隣には、カカシがいた。
まだそう寒くもない、涼しくなったばかりの秋口の晴れた日で、
オレとカカシは散歩をしていたのだ。天気が良くてその日は休日で、
オレはカカシが好きでカカシもオレが好きで、オレはどうしようもなく幸福だった。

「ああいうの、いいね」
カカシが親子連れの昼食風景を見ながら、何となしに言った。
別に羨んでいる風でもオレに当てこすっている風でもなくて、
単に心から思ったことがポロリと漏れた、そんな感じの呟きだった。
「うん、いいな」
オレも素直にそう言った。オレもカカシも、育ちが少し一般家庭の子供とは違うから、
今までああいった種類の幸福には縁がない。
けれど、それは微笑みながら許されるような光景だった。
経験したことはないのに、どこか懐かしい光景だった。
「でもさ」
オレは、できるだけ自分の幸福感が伝わるように、そっとカカシの手を握った。
なぁに、声には出さずに、カカシが優しい笑みを向けてくる。
「こういうのも悪くないと思う、オレは」
オレはキュッとカカシの手を握ってカカシに向かってちょっと笑った。
もう、おなじ高さにあるカカシの目がちょっと驚いたようにオレを見て、
それからカカシはそっと幸せそうに笑った。
休みの日にこうやって散歩して、いいねって言いながら近所の子供が
大きくなっていくのを見て、そうしてじいさんになって、
忍を引退してふたりで散歩して、…
そういうのも確かに幸せだと思うんだとオレは言った。
カカシは恥ずかしい子だねぇとか何とか言いながら、少し強い力で手を握り返してくれた。
じいさんになっても、一緒にここを歩いているんだってオレは思った。
あのとき、オレはどうしようもなく幸福だった。


親子連れは相変わらず春の陽気の下で弁当を食べている。
蝶々はどこかへ飛んで行ってしまった。
オレは、なんだか堪らなくなった。思い出すと堪らなくなった。
オレは何をしているんだ、オレが好きだと思う人ははっきりしているのに。
オレが一緒にいたいと思う人、ずっと側にいたいと思う人ははっきりしているのに、
そしてオレに迷いはないのに。オレは何をしているんだ。
相手が迷っているのなら、オレが連れて行けばいい。
引きずってでも、抵抗されても無理矢理でも連れて行けばいい。だってホントは
オレのことを好きなんだって、オレは知っているから。
でもあいつは臆病だから言い出せないんだ、自分が幸せになることを怖がっているんだ。
だったらオレがその迷いを全部取ってあげないといけないのに、オレは何をしているんだ。
あいつ一人ではあそこから動けないことだって、オレは知っているのに。

オレは堪らなくなって走り出した。カカシの家の方向へ。ここ一ヶ月、
足を向けようとしてはどうしても進み出せなかった道のりを、
オレの足はすらすらと走って行った。
春の陽気はあたたかくて、すぐにオレの額には汗が浮かぶ。
カカシを抱き締めたら汗くさい、と言って顔を顰めるかもしれない。
構うもんか、暑いって言ってカカシも汗をかくぐらいに、
オレは思い切り カカシを抱き締めてやる。
オレはますます勢いよく地面を蹴った。もう親子連れの姿はとうに見えない。
抱き締めたら、思い切りカカシを抱き締めたら、
何を言われてもどこにも行かないから信じろって言ってやろう。
それでもカカシは臆病だから、信じてくれないかもしれないけれど、
そうしたら死ぬまで側にいてやればいい。オッサンになってじいさんになって、
忍を引退して一緒に春の日に散歩に行って、そうしてきっとカカシが先に死ぬ。
そうしたら、オレはカカシを棺桶に入れる前にその手を握って、
ほら、ウソじゃなかっただろ。そう言ってやろう。

オレの足はただただ地面を蹴った。春の日の太陽が燦々と降り注いで、妙な高揚感の中で
オレはオレが祝福されているように感じた。この恋が祝福されているように感じた。
たとえ、何も生み出さない恋だとしても。人目を憚るような恋だとしても。

深呼吸してカカシの家のドアを開ける。あまりにも突然走ってきたものだから、
まず何を言おうかともオレは考えていなかった。一応ケンカ中だったんだから、
ゴメンってそれから言おうか。それとも先に、あの婚約は破棄するからって言おうか。
オレのために出してもらったすべての金を返してでも、破棄するからって。
オレだって今は里一番の稼ぎ頭なんだ、できないことじゃない。
それとも何か言う前にカカシを抱きしめてしまおうか。
それとも、…。

「カカシ?」

そっと唇を震わせるだけで呼んでみる。オレたちはこの程度の声の出し方で
十分に会話が出来る。それでも返事がないとしたら、出掛けているか眠っているかだ。
もちろん、普段人の気配で起きないなどということはオレ達にはあり得ないのだけれど、
カカシはオレの気配では目を覚まさない。オレもカカシの気配では目を覚まさない。
それはあまりにも近くにありすぎて、オレ達は互いの気配を自分のものとしてしまった。
それほどに、オレ達は近く、深く繋がってきたのだ。
近付く気配を自分のものと同化させてしまうほどに。

返事はなくともカカシがいる気配はしたので、オレはカカシが眠っているのだろうと、
そっと寝室のノブを回した。

「カカシ、…」

そこから先は音にならなかった。
カカシは眠っていた。床の上で布団にくるまって丸くなって。
少し俯せられた横顔には、涙の跡が幾筋も残っていた。

「………」

丸まって眠るカカシの回りには、何か紙くずのようなものがばらばらと落ちている。
なんだ、とオレは目を凝らして、それから喉が熱くなった。
喉の奥に熱の固まりがせり上がってきて、目が熱くなった。
カカシの回りには一見するとごみのような紙くずが落ちていた。
植物園の半券、 駅でもらった電車の時刻表、コンビニのレシート、花屋のリボン。
それから写真嫌いなオレが一枚だけカカシと撮った写真が落ちていた。

「カカシ、」

オレ達は忍だ。忍とは、忍ぶものだ。自分の気配をも忍ぶ者だ。
そんなオレ達は、幼い頃から自分の痕跡を消し去ることを習慣づけられる。
忍とは、自分の痕跡を残してはいけないのだ、それが往々にして命取りになる。
読んだ文書は消す、自分の足取りを残してしまう物はその場で消す。
それはもうほとんど無意識の所作になっていて、オレ達は意識しない限り、
自分の全ての痕跡を消してしまう。何も残らないように。

「カカシ、」

植物園の半券などどうしたのかも覚えていない。瞬時に手の中で消した。
ただ、その植物園は冬に行ったところだ。
外で手を繋いでデートをしたい、とごねたオレに、仕方がないねとカカシは笑って、
穴場だという植物園に連れて行ってくれた。
カカシだって、入場の時にもらう半券なんてすぐに消してしまったのだと思っていたのに。

「起きろよ、カカシ、」

時刻表は、二人で旅行に行った時のものだ。土産だって買わなかったのに。
コンビニのレシートは、確か二人で夜中に酒を買いに行った時のやつだ。
そうだ、オレの誕生日だった、今日ぐらい飲もうかってあんたが言って。

「何やってんだよ、あんた、」

花屋のリボンはオレが付き合ってから初めてカカシにやった花束に
くっついていたやつだ。誕生日に何を贈っていいのか分からなくて、
花束を抱えてやって来たオレを見て、カカシは大笑いしやがった。

「何やってんだよ、…」

何やってんだ、オレ達の幸福だった痕跡を広げて。
そんなものオレは全部捨ててしまっていたのに、あんたは全部取ってたっていうのか。
何やってんだ、オレにおめでとうなんて言ったくせに。
幸福な時間を切り取ったみたいな写真を見ながら眠って。何の夢を見てるんだ、
何で泣いたんだ。なんでそうやって二人だった時間に囲まれて眠ってるんだ、
毎晩そうやって泣いて寝てたのか。オレにはあんなことを言ったくせに。

「起きろ!!」

オレは堪らなくなってカカシを乱暴に揺すった。カカシが驚いたように目を開く。
その頬には、やはり幾筋も涙の跡が残っている。

「何やってんだ、なんだこれは!」

オレはカカシの回りに散らばっている様々な思い出の痕跡を指さして怒鳴った。
痛ましくて切なくて、怒鳴りでもしなければ泣き出してしまいそうだった。
だけどカカシは、オレのそんな様子を誤解したように、
一度目を見開いてからオレを睨んだ。そしてカカシもまた怒鳴り声で叫んだ。

「いいだろ、別に…サスケのことは返してあげるんだから、
オレだってこれくらい持ってたっていいだろ!」
「返してあげるって何だよ!」
「だから解放してやるって言ってんだよ!でもオレだって、
オレだってこれぐらいいいだろ、これぐらいはオレのもんにしたって、いいだろ!」

最後のほうは、カカシは少し泣いていた。もしかしたらまだ、夢の中だと
思っているのかも知れない。

「これぐらいは、オレのもんだよ、サスケが誰と結婚したってオレのもんだ。
あの時植物園で手を繋いでたのはオレだ、一緒に旅行に行ったのも、
お前に花束をもらったんだって、一緒に夜中にお前を祝って酒を飲んだのだって、
オレだったんだから、…」

半分泣きながらそんなことを言ってくるカカシがやっぱり痛ましくて、
オレはカカシを布団ごと抱き締めた。
先ほどの光景が蘇ってくる。河原で弁当を広げていた親子連れ、ふわふわ飛んでいた蝶々。
あたたかい陽気、ほころんでいた花。

「ちゃんと返してあげるんだ、お前が大事だから、お前が幸せだとオレも嬉しいんだ、
嘘じゃないんだ、…」

一緒に手を繋いで歩いた、あたたかくなったら新しい家に一緒に住もうって言った。
あんたは臆病すぎるけれど、オレがその手をずっと取っていてやろうと思った。

「…ホンットに、バカだな、あんた、」

じいさんになっても一緒に散歩に行くんだ、近所の子供が大きくなって、
いいねぇとか二人で言いながら、でもオレは隣にあんたがいる幸福に何よりも感謝する。

「なあ、オレがどうしたら一番幸せなのか、何を一番大切にしているのか、
オレ何回でも言うからさ、」

カカシは布団の中にもぐりこんでしまった。泣いているみたいだった。
目が覚めているのかいないのかも、布団の上からじゃよく分からない。
でも、オレはやっぱり布団ごとカカシを抱き締めた。

「あんたが分かるまで、もしかして分からなくても、死ぬまでずっと側で言ってやるから、
それでいいよ。そしたら死ぬときには分かるだろ、」

じいさんになっても一緒に、春の陽気の中を一緒に歩くんだ。
オレの隣にはあんたがいて、 あんたの隣にはオレがいて、
オレはあんたが好きであんたもオレが好きで…
その頃にはもう、今みたいな激情はないのかもしれないけれど。

「な、カカシ、花咲いてたぜ。明日ぐらいに、新しい家探しに行こうな」

でもオレは何度だってあんたの隣で見る風景をきっと幸福に思う。
繋ぐ手がだんだんとかさかさして小さくなって皺だらけになっていくのを、
きっと幸福に思う。そんなことを感じることの出来る自分を幸福に思う。


いつの間にかカカシの泣き声が止んでいて、オレは布団に頬をつけたまま
そっと目を瞑った。
目を閉じたオレの頬の上に、窓から差し込む春の光がぽかりと落ちてくる。
頬をつけた布団は、あたたかくて日なたの匂いがした。


目を瞑る前にふと見た窓の外では、黄色い蝶々がふわふわと空を舞っていた。


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end